中勘助5-水辺の自分その境界の消失-

 

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カタクリまだ咲かず

人は何かあるたびに水辺にたたずむ。
水辺に立つということは自分では解しえない現実の脈絡もない筋書きを水という鏡に他人事のように写し出すためである。川や海が人の心を写し出す「鏡」となることを知っているからだ。一人つぶやきながら,水にもう一人の自分を語らせる。

今,ゆらめいた水面に写っている自分はもう本当の自分ではない。
もう他人なのだ。我が苦しみよ。我が後悔よ。そして行く宛てのない憎悪よ。去ることもない哀しみよ。そのすべてが水の中に溶け込み,沈み去るがよい。水の世界は哀しみ人の抱える脈絡もない筋書きを水底深くへ沈めていく。

このように思いながら水辺を渡り歩く中勘助を見て,5回目となります。
今日は大正元年作の「島守」です。「銀の匙」はまさに水辺,野尻湖で書かれました。そしてその水辺の生活の様子を描いたのが「島守」です。野尻湖の北西にある孤島,琵琶島に島守としてたった一人で渡った中勘助は日記仕立てのこの作品を明治四十四年九月二十三日から始めます。終わりは約一か月後の10月17日です。たった一人だけの孤島で過ごす生活はこう語られている。


朝目がさめるとながいあいだの習慣にしたがって睡後のけだるさが心臓から指の先まですっかりきえてしまうまでは静かに床のなかに仰臥している。漸く五体が自分のものになれば起きて南の浜へ顔を洗いにゆく。・・・。次には土間の蓄えのうちから一掴みの杉の枯葉とやや生のとを拾い五、六本の木屑をそえて焜炉に火をおこす。燃えたつ火のなかへ三つ四つ手づかみに投げこむ炭のおこるころには杉の葉は灰に、木屑はほどよくおきになってそのうえに土瓶がのせられる。掃除をして餅の黴をけずり、玉子や茶道具をそばにならべ、小皿に醤油しょうゆをうつすじぶんにはちょうど湯がわく。そこで火箸ひばしを火のうえにわたして餅をのせ、その焼けあんばいによって焜炉の扉のかげんをするのをひとりで興がりながら端から醤油をつけてたべる。それから玉子をのみ、豆板をたべ、茶をすすって朝の食事をおえ、ひと休みののち食器をかたづけるまで火をたきつけてから約一時間半を費す。・・・。小憩ののち読書、もしくは日記。時間と手数のために昼飯をはぶき、もし暖かならば南の浜へおりて体をふく。膝ぶしぐらいまで水にはいり、摩擦によって充血した皮膚を日光にあてまた微風に冷しながら四方の山を眺める気もちはまことに爽快である。もし濯すすぐべき衣類食器などあればついでに洗う。帰って心臓の鼓動のしずまるのをまって読書、要すれば午睡。三時半夕食の用意にかかる。(日が)暮れるまでにゆっくり散歩の時間を得たいためである。大体の順序は朝におなじ。但ただし夕食は雑煮なので餅の黴をおとしてからおなじ庖丁で鰹節をかき、茄子の皮をむいて銀杏いちょうにきり、つゆのかげんをして鍋をかけねばならぬ。しずかに休んでから手ばやく食器をかたづけ、火をけして鳥居へゆく。そうしてそこからお宮までのあいだの長い路を落葉をひろったり、歌をうたったり、木の根をまたいだり、石段をあがったりおりたりして火ともしごろまで歩いている。


中勘助は実に一人の生活を楽しんでいるようだ。ただ島守としての仕事と言えば暗くなってから鳥居のところに灯明を点けて歩くことである。あとは鳥の声を聴き,木々を見上げ,どんぐりを拾い,鼠や虫を観察する。まことにのんびりとした生活である。何かしらと不便な島の生活についての愚痴は何一つ書かれていない。彼はこんな生活に心底憧れていたのではないだろうか。実際この野尻湖の標高からしてお彼岸過ぎのこの季節は底冷えが増す時期だが,そうした暑さ,寒さへの不平は一言も彼の口からは出ない。むしろ寒くなっての冬の渡り鳥の来訪を待ちかねている様子にさえ自然好きな彼の楽しみが読み取れる。十月二日の文章を味わってみよう。


朝。鳥は山をこえる朝の光をみて さめよ さめよ さめよ と呼ぶ。呼ばれてさめるものはこの島に私ひとりである。そうしてさめて四周の清浄なことを思って心から満足をおぼえる。濶葉樹(かつようじゅ)の葉ごしに緑の光がさして切るような朝の気が音もなく流れてくる。崖をおりて浜へ出る。村の人たちはまだ起きたばかりであろう、湖にも岡にも影がみえない。
 食後。桟橋へでる。斑尾の道を豆ほどの荷馬がゆき、杉窪を菅笠がのぼってゆくのは蕎麦を刈るのであろう。そのわきには焦茶ちゃ色の粟(あわ)畑とみずみずしい黍(きび)畑がみえ、湖辺の稲田は煙るように光り、北の岡の雑木の緑に朱を織りまぜた漆までが手にとるようにみえる。妙高、黒姫も峰のほうはいつしか黄葉しはじめた。曳かれてゆく家畜のように列をなして黒姫から飯綱へかけ断続した朝の雲がゆく。水の底が遠くまで透けて日光につくられた金いろの網がぶわぶわとゆらぎ、根こぎにされた水草の芽が浮きもせず沈みもせずにゆらゆらと漂いあるく。


中勘助の筆は秋の空気感をそのままに冴え渡っている。ワンセンテンスが短く,むしろカット割りは多いが,一つ一つの映像がしっくりと頭に立ち上がってくるのは何よりも風景に同化しているからであろう。つまり今居る風景への絶対的な親和感が文章を肯定感で満たしているのである。このような肯定感はツルゲーネフの「逢いびき」「はつ恋」などの自然主義描写の興りに同時代的に中勘助もシンクロしているような気がする。
この頃,文壇連中は題材探しに急急とし,新聞ネタで騒がれたり,三面記事を騒がせる新聞と癒着していた作家達とは全く別向きに脱東京を果たした。中勘助は「銀の匙」で高校大学と恩師であった夏目漱石から朝日新聞への連載に推薦を受けたことは実に彼の文学的環境が揃っていたことでもあった。彼はこうして人まみれの東京から遁走して水辺へと走っていったのだった。

人は何かあるたびに水辺にたたずむ。
水辺に立つということは自分では解しえない現実の脈絡もない筋書きを水という鏡に他人事のように写し出すためである。川や海が人の心を写し出す「鏡」となることを知っているからだ。一人つぶやきながら,水にもう一人の自分を語らせる。

中勘助4-水辺に向かう心-

中勘助4-水辺に向かう心-

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春霞の伊豆沼 昨日4月5日

私が好きな絵にダビット・カスパー・フリードリヒの「海辺に立つ修道士」がある
早速見てみましょう。
海辺に立つ修道士
デビット・カスパー・フリードリヒ『海辺に立つ修道士』(部分)1809-10

人は水辺に立つと決して後ろを振り返ることはしなくなる。どうしてだろう。人は,海でもいい,川でもいいとにかく水辺と向かい合うことでそこには不思議と閉じた空間と時間が生まれるのである。こういう私も伊豆沼のほとりに生まれ,子どもの頃から水辺が好きで飽くことなく水と向かい合ってきた。水面や水平線を見ていると,自分の全てが水に溶けていってしまう。自分の抱えてしまっている始末に負えないもの達がいつの間にか無くなってしまうのだ。
こんな感覚を覚えている人も多いと思う。

中勘助を好ましく読んでいるが,この中勘助という作家も「水辺に向かう心」を持っていたのではと強く感じる。今日は水辺に居る中勘助を遠くから見て,その背中にそっと語り掛けたい。
銀の匙」を書いたのはやはり水辺である野尻湖だった。まずは野尻湖の西北にある安養寺にお世話になり,そして孤島琵琶島へと移る。このことは「島守」に書いてある。

これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮さえぎるものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培つちかうべく湖のなかに蟠(わだか)まったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北にかわる境さかいめに崖を駈けおりて水を汲んでくるほどのあいだそれまでの騒さわがしさにひきかえて落葉松のしんを噛むきくいむしの音もきこえるばかり静しずかな無風の状態がつづく。
 この島守の無事であることを湖の彼方かなたの人びとにつげるものはおりおり食物を運んでくれる「本陣」のほかには毎夜ともす燈明の光と風の誘ってゆく歌の声ばかりである。

中勘助はこの島での一人暮らしを「性来、特に現在甚だ人間嫌いになった私にとってもこの人が島へくることは一尾の鱒ますが游およいできたような喜びを与える」と喜んでいる。彼の文章は水辺を描いて実に冴える。彼の文章は瑞々しく,水のように自由に変化し,流れをつくる。
芙蓉の花の形をした野尻湖を地図で確かめてみよう。

野尻湖
芙蓉の花の形野尻湖と安養寺,琵琶島
なんとも本当に花びらの形に見えてくる。そして彼が実際島守になった琵琶島は彼が言うように「芙蓉の花に留まった虻(あぶ)」のように思えてくる。

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差し込む光

私は今ひとりになって世のさかしらな人びとに愚かな己おのれの姿を見る苦しみからのがれ、またいかに人間はつまらぬ交渉をつづけんがために無益に煩わずらわされてるかを知った。世のあさましいことは見つくしまたしつくした。今はただ暫しばしなりとも清浄な安息を得たいと思う。旅人よ、私はおんみらがかしましいだみ声をもってこの寂寞せきばくを破ることをおそれるばかりである。
 島にひとりいれば心ゆくばかり静かである。

こうした言い方は,外界を避けるというよりもドウシヨウモナク水辺に惹き付けられている自分の感情に正直であったからだろう。更に彼は翌年の明治45年夏もここで過ごし,「銀の匙」を書き終えるのである。彼26歳と27歳の夏だった。

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早春のさんぽ道 昨日4月5日

だから中勘助は水辺を愛した,とはまだ言えないかもしれない。しかし,その後彼は今度は手賀沼に3年移り住み,「沼のほとり」を書くのである。やはり水辺である。「沼のほとり」の彼のことはまた別に話すとしても,どうして中勘助野尻湖,そして琵琶島を選んだのだろう。同級生の岩波茂雄がまず藤村操の華厳の滝での自殺に衝撃を受けて,やはりこの野尻湖琵琶島に人生を考えるために哲学書を抱えて籠った。明治36年7月のことである。そして次には岩波茂雄の親友である安倍能成(よししげ)も2年後の明治38年8月に野尻湖琵琶島に籠る。そして3度目にこの中勘助である。どうも一人で籠るのに絶好の場所であるという話が三人の間で交されたかもしれない。しかし,なぜ岩波茂雄野尻湖を選んだのだろうか。というよりも岩波自身もやはり水辺を乞い求めたと言えるのではないだろうか。それは岩波の故郷が長野県諏訪湖のほとりだからである。奇しくも岩波茂雄安倍能成中勘助という三人が同じ野尻湖琵琶島の島守になっていたとは実に興味深いことである。そして中勘助は更に水辺を求めて3年間手賀沼で過ごす。

どうだろう。中勘助はドウシヨウモナク水辺に魅せられていたといっても嘘ではないと感じるのです。
人は水辺に立つと決して後ろを振り返ることはしなくなる。水辺と向かい合うことでそこには不思議と閉じた空間と時間が生まれるのである。水面や水平線を見ていると,自分の全てが水に溶けていってしまう。自分の抱えてしまっている始末に負えないもの達がいつの間にか無くなってしまうのだ。

中勘助3「銀の匙」の伯母さん

中勘助3「銀の匙」の伯母さん

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星の栗駒山への道

中勘助はほぼ80歳まで生きたが,生まれた時にはそれは難産で,生まれてからも虚弱体質で,神経過敏で日にちを措かず頭痛に悩まされた子ども時代の苦労を語ったのが,この「銀の匙」という作品である。そうした虚弱体質や腫れ物を直すために薬を飲ませていたのがこの銀の匙で,だったわけである。
人は幼くして病弱であることもあろうし,生まれてから一生病気一つしないで健康であることもある。人それぞれである。中勘助自身は虚弱のために苦労はしたが,その苦労はやがて美しい世界の見方に結晶していった点で,優れた文学者となった。中を育てた家族や親戚の苦労は推して量れるが,他でもない伯母の存在は実に貴い。誰しも惜しみなく愛情を注いでくれる者がいたからこそ何があったとしても生きて行けるものなのである。

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夕靄に煙る

銀の匙」の後編十六から,16歳になった主人公が育ててくれた伯母さんを久し振りに訪れるシーンが始まる。年老いて耳も聞えなくなり,目も見えなくなった伯母さんの姿は痛々しくもあるが,誰よりも底抜けにやさしい,その人柄は一切変わらない。

「伯母さんわかりませんか。□□です」
といつたら
「え」
といつて縁先へ飛んできて暫くは瞬きもしずにひとの顔をのぞきこんだあげく涙をほろほろとこぼして
「□さかや。おお おお □さかや」
といひいひ自分よりはずつと背が高くなつた私を頭から肩からお賓頭盧様みたいに撫でまはした。さうしてひとが消えてなくなりでもするかのやうにすこしも眼をはなさず
「まあ、そのいに大きならんしてちよつともわかれせんがや」
といひながら火鉢のそばに坐らせ、挨拶もそこそこにもつと撫でたさうな様子で
「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで逢へんかしらんと思つとつたに」
と拝まないばかりにして涙をふく。

そうして伯母さんは近くの魚屋から買ってきた二十数匹のかれいを煮て,全部食べろ食べろと言って出すのである。そして見えない目で大きくなった主人公の身体をなで回し,阿弥陀様にお礼の読経を始めるのである。その伯母さんは今は「ちらめく蝋燭の光に照されて病みほうけた体がひよろひよろと動くやうにみえる。」
生まれてこの方どんな時も主人公から離れず守り続けた伯母の姿である。
四王天清正の立廻りをしてくれた伯母さん、枕の抽匣から目ざましの肉桂棒をだしてくれた伯母さん、その伯母さんは影法師みたいになつてしまつた。」

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雲間からの月

その伯母さんという人は現在では母方の一番上の姉だということだが,名前も定かではない。
さてそうした伯母さんは神経過敏で虚弱体質の主人公にどう接していたかは全編に亘って隅々まで書かれている。今日はその中から前編の「十四」の食べることを取り上げたい。

生れつきの虚弱のうへに運動不足のため消化不良であつた私は、蜂の王様みたいに食ひ物を口に押しつけられるまでは食ふことを忘れてゐて伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。

そこで伯母さんはどうやってうまく食の細い神経過敏な子どもに食べさせていたのだろうか。こうした子どものこだわりはまず食べることに現れる。自分もそうであった。匂い,見た目が怖い,口に入れたときの食感など,嫌いになると死んでも口にしないようになるのが,子ども時代の唯一の主張でもある。ところが伯母さんはさすがに上手い。こうである。

羊羹のあき箱に握飯をつめ伊勢詣りといふ趣向で、伯母さんが先に立つて庭の築山をぐるぐるまはり歩いたあげく石燈籠のまへで柏手をうちお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当をたべたこともあつた。またあるときは妹や乳母もいつしよに待宵の咲いてる原へ海苔まきをもつていつて食べたこともあつた。

気が向いて食べ始めると外であるから人が来ることがある。

杉や榎や欅などの大木が立ちならんだ崖のうへから見わたすと富士、箱根、足柄などの山山がかうかうと見える。私はいつになく喜んで昼飯をたべてたのに折あしくむかふから人がきたものですぐさま箸をはふりだして もう帰る といひだした。生きもののうちでは人間がいちばん嫌ひだつた。

次の手は伯母さんの誘いの巧さである。

蛤の佃煮はあの可愛い蛤貝が龍宮の乙姫様のまへを舌を出して這つてあるくといふことのために、また竹の子は孟宗の親孝行の話が面白いばつかりに好きであつた。むつくらした竹の子を洗へばもとのはうの節にそうて短い根と紫の疣いぼがならんでゐる。その皮を日にすかしてみると金いろのうぶ毛がはえて裏は象牙のやうに白く筋目がたつてゐる。大きなのは頭にかぶり、小さなのはけばをおとして梅干を包んでもらふ。暫く吸つてるうちに皮が紅色に染つてすつぱい汁が滲みだしてくる。はちくも好きであつた。土鍋でぐつぐつ煮ながらさもさもおいしさうな様子をして煮えくりかへる竹の子の味をきくのをみればさすがの蜂の王様も奥歯のへんに唾のわくのをおぼえた。ときどきあまえて自分で箸をとらないと伯母さんは彩色した小さな茶碗を口へあてがつて
「すずめごだ すずめごだ」
といひながら食べさせてくれる。鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱へてるのも嬉しい。眼玉がうまい。うはつらはぽくぽくしながらしんは柔靱でいくら噛んでも噛みきれない。吐きだすと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。歯の白いのもよい。

このように伯母の愛情は食べることにしても日々主人公に惜しみなく降り注いだ。

どうだろう,別の見方をすると,「銀の匙」は江戸時代が色濃く残る東京の下町の育児書としても読めるのである。中勘助が生まれたのは明治18(1885)年日清日露戦争への道を邁進していく時代である。

特集 中勘助2「銀の匙」

 

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今朝の内沼

手触り,肌ざわり。触覚。
そんな視覚以外の感覚をまざまざと喚び起こす読み物がある。
そんな読み物に出会うと実に嬉しい。
まず,谷崎潤一郎の「美食倶楽部」
暗闇の部屋へ通されて女(らしい?)の指で口の中をれろれろと食前のマッサージを受ける。そして究極の美食「火腿白菜(かたいはくさい)」が出てくる。視覚が閉ざされた中で,他の感覚が総動員される描写の見事さ。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

「・・・大きな衝立の前に燭台を据えて畏まっていたが,畳二畳ばかりの明るい世界を限っているその衝立の後方には,天井から落ちかかりそうな,高い,濃い,ただ一と色の闇が垂れていて,覚束ない蝋燭の灯がその厚みを穿つことができずに,黒い壁に行き当たったように撥ね返されているのであった。諸君はこう云う「灯に照らされた闇」の色を見たことがあるか。それは夜道の闇などとは何処か違った物質であって,たとえば一と粒一と粒が虹色のかがやきを持った,細かい灰に似た微粒子が充満しているもののように見えた。」(P44)


宮城道雄随筆集

同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。


内田百閒「柳検校の小閑」

最後の番の女生徒が出て行くとき,後ろの戸を閉める音はした様であったが,なにかのはずみで,ひとりでに開いたらしい。五月の午後の風が草の葉のにほひを載せて,まともに自分の顔に吹いてきた。風の筋が真直ぐであるということを感じる。広々とした校庭の遠くの方に起こった風であろう。草の香りに混じって何か生臭いにほひが鼻についた。



これらの物語の設定は視覚が遮られている状況下での文章です。聴覚,味覚,臭覚,触覚などが豊かに駆使されて読む者に迫ってきます。私はスチール写真を撮る者ですが,同時に視覚だけではない,フルに様々な感覚が刺激される文学のジャンルが好きなのです。実は写真の楽しみ方が視覚だけではないという思いがあるからです。例えばそういった嗜好はドクインシーの「阿片常用者の告白」やハクスリー「知覚の扉」などから始まっています。感覚の新世界というのか,感覚の自由化というのか,感覚を研ぎ澄ます作品に出会えると嬉しいのです。
まぎれもなく中勘助の「銀の匙」は私の感覚の開放を手伝ってくれた大切な作品のひとつでした。

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水面のゆらぎ

中勘助の「銀の匙」は幼い主人公(中自身でしょう)は,高くて手の届かない程の古い箪笥の上の小引出しをやっと半分開けて,背伸びして小引出しの中のものを手の感触だけで物色するシーンから始まります。


家にもとからひとつの茶箪笥がある。私は爪立つてやつと手のとどくじぶんからその戸棚をあけたり、抽匣をぬきだしたりして、それぞれの手ごたへや軋る音のちがふのを面白がつてゐた。そこに鼈甲の引手のついた小抽匣がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風鎮ふうちんだの印籠いんろうの根付だのといつしよにその銀の匙をみつけた(後略)


こういった見慣れないものを触ってみる衝動に従うことは動物の特権でもあると言えます。
掛け軸を掛ける時の鮮やかな色合いの糸房,ガラス細工の玉,ひやりとする金属の小物,毛氈のなめらかな肌ざわり,かぐわしい香りの匂い玉,樟脳の匂いの強いハンケチ・・・。それらの薄暗くなった部屋の畳の上に撒き散らかされた息も潜めるほどの宝物たちに心ときめかした子ども時代のあの日。
中勘助の「銀の匙」は最初から見事に感覚の飛翔を与える小道具を出して見せた。

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今朝の伊豆沼

銀の匙」がただの子ども時代への甘い追憶や感傷に陥らずにいることに,登場人物の「伯母さん」の存在がある。掛け値無しにただひたすら助け庇護してくれる存在は,実はなくてはならぬものだと思わせる。その伯母さんは「国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで困つた者はもとより、困りもしない者までが困つた困つたといつて金を借りにくると自分たちの食べる物に事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさへ貧乏な家は瞬くうちに身代かぎり同然になつてしまつたが、さうなれば借りた奴らは足ぶみもしずに蔭で「あんまり人がよすぎるで」なぞと嘲笑つてゐた。二人はよくよく困れば心あたりの者へ返金の催促もしないではなかつたけれど、さきがすこし哀れなことでもいひだせばほろほろ貰ひ泣きして帰つてきて「気の毒な 気の毒な」といつてゐた。」という底抜けにやさしい人なのである。
実はわたしも大のおばあちゃん子だった。何かにせよ,神様仏さまに手を合わせ,そして孫や甥姪にも,世の中の損得とは全く別に存在全てを全肯定しながらただ抱き寄せられる安心感に浸ることができたのである。
章魚坊主章魚坊主と家族からも言われていたその子どもが毎日必死に伯母さんにひっついてこの世をやり過ごし,どうしても地面に降りなければいけない時に,「世の中の地べたがゆらゆらと揺れるような気がしてますます伯母の袂にかじり着くのであった。」
こういった,人が一日一日と生きていく不安と格闘を見事に活写している「銀の匙

今の子ども達にも是非読んでもらいたいものだ。

中勘助「銀の匙」

中勘助「銀の匙」

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月輪舘より


春の終わりの川霧-月輪舘跡から北上川を見下ろす-罔象女


ここ半月ほど中勘助を読んでいる。
学生時代に「銀の匙」を読んで,その文章の巧みさに唸った。
それから四,五年ほどの間は,「あなたが好きな作品は何ですか」と尋ねられると,もっぱら「銀の匙」ですと答えていた。
ある日のこと,私は近くに住んでいた「安全地帯」という作品を書いた作家に得意げに「銀の匙」が好きですと言った。するとその作家はちょっと顔を曇らせて言った。「なんか子どもに感情移入し過ぎることも良くないよね」と言った。大の大人が,子どもを使って自分の思い込みを植え付けようとすることを好ましいことではないとその作家は言いたかったのだろう。確かに子どもに見せかけて大人の言いたいことを潜ませるような児童文学もあるのだろう。そうした書き手の浅ましい態度を牽制して言ったのだろう。
それでは「銀の匙」もそうなのか。「赤い鳥」に掲載されるような朧気な夢のような掌編と同じなのか。否。全く違うと言いたい。
銀の匙」にはどこか異様な説得力があると感じてきた。それは語り手の子どもが創り出す,つまり中勘助自身の強い意志が感じられる。その強い意志(社会的には反発だが)は,世間や世界にことごとく抗(あらが)うことで養われていることをよく書き表している。大人はすぐ忘れることで成り立っている。当の大人が振り返る自分の子ども時代は悉く誇張されていると思っていい。哀しさも憎しみも,楽しさの記憶もすべての記憶が強いコントラストを受け,記憶の色の階層は白か黒かに塗りつぶされているのだ。

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春の終わりの川霧-月輪舘跡から北上川を見下ろす-

今回「銀の匙」を再読したり,彼の他の作品をゆっくり味わうことができたことは幸せであった。と同時に文壇の騒ぎから遠くにいる中勘助の振り子の振幅度合いをわずかばかりではあったが確かめられたような気がした。中勘助のことについて何回かにわたり感想を書くつもりだがとりあえず箇条書きでその視点を出しておきたい。

・水に魅せられていた中勘助野尻湖手賀沼
・「島守」について-岩波茂雄安倍能成らとの交流-

・鳥の物語
・夜や夢の描写
・「犬」の特異性

この話は続きます

自由への道のり

自由への道のり

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栗駒山お彼岸の入り日 昨日3月22日

村上龍「コインロッカーベイビーズ」(1980)肉体を振り切るためにバイクで疾走する
浅田彰「逃走論」(1986)システムからの軽々とした逃避行
村上龍「TOKYO DECADANCE」(1991)社会的な信用など何も期待できない。映画の始まりのセリフは「俺を信用しろ」

これが40年前の自由への道のりのイメージだった
身体を振り切るほどのスピード感,ドラッグ,社会システムへの反抗,または飄々とした飛躍遁走,他を圧するグルーブ感をもって連射される言葉。
これらの自由へのイメージは実は自分の身体を中心として展開してきた。つまり自分の身体への違和感ではなく,自分の身体で感じる苛立ちを開放させるという自由だった。つまり自分の身体への絶対的な信頼がまずあって,その身体感覚をどのように遠くまで,限界そのものを超えるかが自由を語るスタート地点と言えた。

先日,ラジオの対談番組で,ある声優が「肉体はいらない」と言っていた。「肉体を脱ぎ出したい」と言った。つまり様々な作品の役に徹するために魂ごと作品のキャラにしっくりとはまり込みたいという意味から出た言葉だった。そのためには肉体はいらないという実に仕事に対しての真面目な態度がそう語らせていたのだ。肉体という枷(かせ)を易々と抜け出して大切な魂だけが行き来できるようにしておく。この思いは声優という職業への没頭から自然と出てきたイメージだけれど,実におもしろい。現代の人々の自由へのイメージが身体を脱ぎ捨てた魂の運動として凝縮しているからだ。この考えはまずコロナやトランスジェンダー問題から忠実に道を辿っていくと身体から魂が抜け出る運動が着地点として用意されているように私には感じた。一体今の「バ美肉」という現象は憑依し,性転換を可能にし,ボイスチェンジャーで性を無化させている。そのキャラの立ち具合が魂の成熟への道程といやにシンクロしているのだ。これは魂だけは自由で,健康で,オリジナルでありたいという人々の願望を,身体の形而上学が導き出した答えでもある。いわゆるとりあえずVチューバ-という憑依した魂の運動空間へと増殖している。

自由にとって身体とは何か。性を伴う身体の自由とは何か。
実はこれと同じような課題を仏教の教義は伝えていた。法華経の龍女成仏の話である。女人が死んだ場合,成仏させるために一旦男に性転換させた上で成仏させるという方法である。現代では考えられない偏見だが,Vチューバ-のやっていることと実に似ているなと感じた。昔も今も,自由への道のりは実に切実で,エモーショナルで,創造的である。

春の音

音で知る季節

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内沼 昨朝3月20日
 朝。日の出ももう5時40分近くまで早くなってきた
 殆ど人の少なくなった水辺に立つと,意外とまだ数百のマガンが飛立って朝焼けの空を遠のいていく
 夜の先程も南中近くのオリオン座を横切り,昴をかすめるようにハクチョウの一群が北へ飛んで行った。最後の北帰行のようだ。星空の暗闇の中でも彼らの声は空のかなり高いところから降って来ていることが分かる。彼らの声は輪郭ははっきりしているものの,空に吸い込まれて小さいのだ。星々がほんの一瞬彼らの影で消えてしまう。季節のうつろいをこのようなかすかな音で切実に感じられることは幸せなことだと感じる。そしてまた幾ばくかの雪が消えていってしまう冬が去るさみしさにも襲われる。

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内沼 昨朝3月20日
 伊豆沼の水辺を感じさせるものに水の流れる音がある。
 しかし,今はその音はめったに景色を響かせることはなくなった。流れる水の音が華やかになることも春の訪れの確かさを感じさせる。冬の空気の粒子がきっちりと切れ味鋭く立っている中に響く水の音は険しささえ感じ耳に痛い。しかし最近の水音は水の散り方が華やかで響く空気の中で少しくぐもって柔らかい。岸辺にはもう春の花群れが少し寒さを警戒するかのように縮まって咲いている。
 水音で知る春の季節もあるが,残念ながらあくまで観ることが重視される「観無量寿経」の中で音の記述は少ない。水観の項にこうある。


また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、第二の観と名づける。
その流れからおこるすばらしい響きは苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。


光の中から清らかな風が生まれ,その風が置いてある様々な楽器をかき鳴らすのである。その声は仏を誉め讃える祈りの声になるという。次に「極楽世界の池の水を想い描くがよい」と出てくる。
「極楽世界には八つの池がある。そのそれぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであってそれはもっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。そして分れて十四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている。一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由旬である。宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れまた樹々をうるおしている。その流れからおこるすばらしい響きは苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。
 このように水の流れる音は具体的には書かれていない。

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内沼 昨朝3月20日

 こうしていると「その楼閣の中には数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。また空には楽器が浮んでおり、兜率天にいる宝幢神の楽器のように、奏でるのもがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説くのである」
このように光り輝く空で奏でられる音楽とはいったいどんな音楽であろうか。
わたしはいつも阿弥陀如来が紫立つ雲にのって音楽を奏でる二十五菩薩を連れてこの世に下りてくる時の音楽を想う。
最近も星さんが彫った二十五菩薩来迎図を見にいった。素晴らしい作品だ。180日間掘り続けた作品は総体でひとつの立体絵巻になっているがその樹の中か生まれ出てくる彼らの音楽が気になった。人は観ることで身体の奥から生まれてくる調べに身をまかせることが必要だが,音の世界はどこか視覚と一体化しない幻聴が入り込む怖れがあってか,文字化されることを逃れてきた。

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内沼 昨朝3月20日

しかし,声明という声の世界が厳然としてあり,その声の張りや大きさ,声の表情,声質,声色が聴く者を極楽に誘うという事例は名僧伝の中にもかなりある。声の魅力はまた抑揚や間にもあるだろう。私は幼い頃によく叔母達の和讃を聴いた。声の質がそれぞれ違う叔母達が鉦や数珠を鳴らしながら響き合うこの上なく美しい声を忘れずにいる。もうその叔母達もこの世にはいなくなったが,歌いながら憧れ往った者を偲び,自分達も憧れる。そういった祈りは千年以上も途切れることなく続いてきた。日蓮親鸞などが,また後白河法皇などが「梁塵秘抄」の中に,声でこの世に仏達を招き入れようとする和讃の数々に晩年力を注いだのは,ただ観ることから,この世で共に共振する確かに響き合う世界を打建てるようとしたからだと想われる。
雁や白鳥は春になり声も去り,今度は鶯や雉子が歌うこの世をどのように美しいものだと読めるかは,一人一人の憧れる気持ちにかかっている。