自由への道のり

自由への道のり

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栗駒山お彼岸の入り日 昨日3月22日

村上龍「コインロッカーベイビーズ」(1980)肉体を振り切るためにバイクで疾走する
浅田彰「逃走論」(1986)システムからの軽々とした逃避行
村上龍「TOKYO DECADANCE」(1991)社会的な信用など何も期待できない。映画の始まりのセリフは「俺を信用しろ」

これが40年前の自由への道のりのイメージだった
身体を振り切るほどのスピード感,ドラッグ,社会システムへの反抗,または飄々とした飛躍遁走,他を圧するグルーブ感をもって連射される言葉。
これらの自由へのイメージは実は自分の身体を中心として展開してきた。つまり自分の身体への違和感ではなく,自分の身体で感じる苛立ちを開放させるという自由だった。つまり自分の身体への絶対的な信頼がまずあって,その身体感覚をどのように遠くまで,限界そのものを超えるかが自由を語るスタート地点と言えた。

先日,ラジオの対談番組で,ある声優が「肉体はいらない」と言っていた。「肉体を脱ぎ出したい」と言った。つまり様々な作品の役に徹するために魂ごと作品のキャラにしっくりとはまり込みたいという意味から出た言葉だった。そのためには肉体はいらないという実に仕事に対しての真面目な態度がそう語らせていたのだ。肉体という枷(かせ)を易々と抜け出して大切な魂だけが行き来できるようにしておく。この思いは声優という職業への没頭から自然と出てきたイメージだけれど,実におもしろい。現代の人々の自由へのイメージが身体を脱ぎ捨てた魂の運動として凝縮しているからだ。この考えはまずコロナやトランスジェンダー問題から忠実に道を辿っていくと身体から魂が抜け出る運動が着地点として用意されているように私には感じた。一体今の「バ美肉」という現象は憑依し,性転換を可能にし,ボイスチェンジャーで性を無化させている。そのキャラの立ち具合が魂の成熟への道程といやにシンクロしているのだ。これは魂だけは自由で,健康で,オリジナルでありたいという人々の願望を,身体の形而上学が導き出した答えでもある。いわゆるとりあえずVチューバ-という憑依した魂の運動空間へと増殖している。

自由にとって身体とは何か。性を伴う身体の自由とは何か。
実はこれと同じような課題を仏教の教義は伝えていた。法華経の龍女成仏の話である。女人が死んだ場合,成仏させるために一旦男に性転換させた上で成仏させるという方法である。現代では考えられない偏見だが,Vチューバ-のやっていることと実に似ているなと感じた。昔も今も,自由への道のりは実に切実で,エモーショナルで,創造的である。