春の音

音で知る季節

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内沼 昨朝3月20日
 朝。日の出ももう5時40分近くまで早くなってきた
 殆ど人の少なくなった水辺に立つと,意外とまだ数百のマガンが飛立って朝焼けの空を遠のいていく
 夜の先程も南中近くのオリオン座を横切り,昴をかすめるようにハクチョウの一群が北へ飛んで行った。最後の北帰行のようだ。星空の暗闇の中でも彼らの声は空のかなり高いところから降って来ていることが分かる。彼らの声は輪郭ははっきりしているものの,空に吸い込まれて小さいのだ。星々がほんの一瞬彼らの影で消えてしまう。季節のうつろいをこのようなかすかな音で切実に感じられることは幸せなことだと感じる。そしてまた幾ばくかの雪が消えていってしまう冬が去るさみしさにも襲われる。

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内沼 昨朝3月20日
 伊豆沼の水辺を感じさせるものに水の流れる音がある。
 しかし,今はその音はめったに景色を響かせることはなくなった。流れる水の音が華やかになることも春の訪れの確かさを感じさせる。冬の空気の粒子がきっちりと切れ味鋭く立っている中に響く水の音は険しささえ感じ耳に痛い。しかし最近の水音は水の散り方が華やかで響く空気の中で少しくぐもって柔らかい。岸辺にはもう春の花群れが少し寒さを警戒するかのように縮まって咲いている。
 水音で知る春の季節もあるが,残念ながらあくまで観ることが重視される「観無量寿経」の中で音の記述は少ない。水観の項にこうある。


また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、第二の観と名づける。
その流れからおこるすばらしい響きは苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。


光の中から清らかな風が生まれ,その風が置いてある様々な楽器をかき鳴らすのである。その声は仏を誉め讃える祈りの声になるという。次に「極楽世界の池の水を想い描くがよい」と出てくる。
「極楽世界には八つの池がある。そのそれぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであってそれはもっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。そして分れて十四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている。一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由旬である。宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れまた樹々をうるおしている。その流れからおこるすばらしい響きは苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。
 このように水の流れる音は具体的には書かれていない。

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内沼 昨朝3月20日

 こうしていると「その楼閣の中には数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。また空には楽器が浮んでおり、兜率天にいる宝幢神の楽器のように、奏でるのもがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説くのである」
このように光り輝く空で奏でられる音楽とはいったいどんな音楽であろうか。
わたしはいつも阿弥陀如来が紫立つ雲にのって音楽を奏でる二十五菩薩を連れてこの世に下りてくる時の音楽を想う。
最近も星さんが彫った二十五菩薩来迎図を見にいった。素晴らしい作品だ。180日間掘り続けた作品は総体でひとつの立体絵巻になっているがその樹の中か生まれ出てくる彼らの音楽が気になった。人は観ることで身体の奥から生まれてくる調べに身をまかせることが必要だが,音の世界はどこか視覚と一体化しない幻聴が入り込む怖れがあってか,文字化されることを逃れてきた。

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内沼 昨朝3月20日

しかし,声明という声の世界が厳然としてあり,その声の張りや大きさ,声の表情,声質,声色が聴く者を極楽に誘うという事例は名僧伝の中にもかなりある。声の魅力はまた抑揚や間にもあるだろう。私は幼い頃によく叔母達の和讃を聴いた。声の質がそれぞれ違う叔母達が鉦や数珠を鳴らしながら響き合うこの上なく美しい声を忘れずにいる。もうその叔母達もこの世にはいなくなったが,歌いながら憧れ往った者を偲び,自分達も憧れる。そういった祈りは千年以上も途切れることなく続いてきた。日蓮親鸞などが,また後白河法皇などが「梁塵秘抄」の中に,声でこの世に仏達を招き入れようとする和讃の数々に晩年力を注いだのは,ただ観ることから,この世で共に共振する確かに響き合う世界を打建てるようとしたからだと想われる。
雁や白鳥は春になり声も去り,今度は鶯や雉子が歌うこの世をどのように美しいものだと読めるかは,一人一人の憧れる気持ちにかかっている。