一本の桜の樹の下で
一本の桜の樹の下で
夕暮れの光
迫町北方に江戸時代の安永風土記(1777)にも載っている「山王の桜」という桜がある。
安永期でも巨木だったのだから風土記にも載ったわけで,そこから数えても245年も経っている。ざっと800年は経っているこの辺でも一際古い桜である。朽ちて可哀想な姿になっても今年もかわいい花を咲かせてくれた。
さてその「山王の桜」に苔むしたもう文も読めないほどの三基の山王桜碑が建っており,その一基が大正二年仙台岡濯撰文とある。これらの碑には「北条時頼」がこの桜を観にきたと書かれている。北条時頼の廻国伝説である。
林の静けさ
さて時頼が東北に来たことは確かな証拠はないが(なにせ隠密の旅なのだから),諸説を見ると,正元元年(1259)時頼32歳の時と言われている。松島寺では騒いで殺されそうになったり,出羽山形立石寺(山寺),秋田象潟蚶満寺(かんまんじ),津軽護国寺を訪ね歩き,いずれも天台宗一色の東北の寺を臨済宗に改宗させたのである。
思えば時頼のお祖父さんの泰時が明恵上人を尊びたエピソードが残っているが,御成敗式目で世の公平さを保証し,民を大切にする考え方はもちろん孫の時頼にもしっかりと受け継がれていたことは心強いことだった。
頼朝から始まる武士政権が始まり,戦だけに明け暮れ,実力だけが物を言う殺伐とした世の中になったかと思えば,民のことを考える「道理」を統治に位置付けた優れた政権運営に目を向けた泰時,時頼らの慧眼は頼もしい。そして時代は少しずつ鎌倉新仏教を体現していく。まず民衆の声を聞いて,権力濫用や悪徳をなす者は許さないという公平な時頼の姿勢は「山王の桜」を見守る村人にも希望を与えた。
老僧に身をやつした時頼が「山王の桜」を褒めたたえて帰ろうとするとそこに農民がやってきます。
山陰から四,五人の土地の者が走ってきて法師を留め,低頭平身して申すには,この土地は山間僻地のため寺僧や神官が来られたことはなかったが,幸いなことに御僧が本日おいでなされた。邑は今悪疫が流行して人々はほとんど農業を捨て病魔に苦しみ,日夜愁歎の涙が絶えません。願わくば吾等を憐れみ下されて悪魔退散のご祈祷をして下さいと懇願した。法師はこれを聞いて歎息し,石を拾ってくるように命じ,沢から担いできた石に筆で梵字(カ)を書いて高峯(今は高見という)に建てさせ,石に注連縄を張って読経し,祈祷が終わると,不日必ず悪魔が退散するから,その時は注連縄を解きなさい。そしてまた悪疫が流行したり,願いごとがある時には予が結んだように難度でも結んだり解いたりするようにと教えた。邑人たちは大変悦んで一泊されることを願ったが法師は袖を払って,別れを惜しむ人々を後に坂道を戻って帰っていった。
まるで「鉢の木」を思わせるひとのまことを尊ぶ時頼だからこそこうした逸話も各地に残っている。豊田武の「英雄と伝説」はこうした時頼らを取り上げ,伝説もまた歴史と言った。名著である。
茂吉の一本道
茂吉の歌
雪解けを迎えて 栗駒山
斎藤茂吉の自選歌集「朝の蛍」(昭和4年)を読んだ
断り書きによるとこの歌どもは大正7年から大正十四年までの約6年間の歌から拾っているという。作品にすれば「赤光」から100首「あらたま」から250首選び,計350首にまとめられている。今までにあまりやったことはなかったが「朝の蛍」から自分の中にじんわりと沁みた歌を選んでみた。
いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てる童の
まなこ小さし
土のうへに赤棟蛇(やまかがし)遊ばずなりにけり入日あか
あかと草はらに見ゆ
水のうへにしらじらと雪ふりきたり降りきた
りつつ消えにけるかも
「に」の使い方に注意すべし
選んで気付いたのだが「畑みちに」「土のうへに」「水のうへに」と「に」の一音が敢えて入っている。これは声に出して読んでみるといかにも一音多い分だけ「に」の音が切っ先鋭く,鋭角的に感じられる。そして無理に前句の景色との関連を図らせるためか強い指定を伴っているようだ。なにかそこに強いこだわりが感じられるが,写真をしている私などは「に」という強い方向性を示すこの語は,ワイド画面からズームアップしていく手法を文字で行うとこうなるのだという「に」に感じられる。一首の歌の画面,その画面内でのズームアップをさせて見せたいものに迫っていく茂吉の表現上の技であるようだ。
新田の見晴らし
次に「死にたまふ母」(大正二年)からです。
山いづる太陽光を拝みたりをだまきの花咲き
つづきたり
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁にゐて足乳根(たらちね)の母は
死にたまふなり
蕗の葉に丁寧にあつめし骨くづもみな骨瓶に
入れしまひけり
茂吉が使う東北の春の色
おだまきの花,燕,蕗の葉といずれも東北では丁度今頃新緑が濃くなっていく時期に見られるものです。萌え立った後の周りの色がいよいよ冴えている様子と母の死という決定的な悲しみを上っ面な感情の言葉を敢えて添えずに完結させた茂吉の決定版の歌歌ですね。これらは母の死に敢えて感傷を加えず,人の死を生き物の死,自然の摂理として捉える東北の風土に根ざした態度がうかがえるような気がします。確かに茂吉の母は大正二年五月二十三日に亡くなりました。
この歌歌を眺めていますと,色彩が鮮やかに頭に残ります。山から出た朝の光の赤,見わたす限りの深く青いおだまきの花々,赤赤とした荼毘の炎,白い骨を集めた緑濃い蕗の大きな葉。茂吉の歌のもう一つの特徴は東北人が知る半年にも及ぶ冬から明けた東北の自然のビビットな色なのです。
麦畑寸景
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我
が命なりけり
かがやけるひとすじの道遙けくてかうかうと
風は吹きゆきにけり
思い極まれり
茂吉の歌う道は実にはっきりと重々しく朝夕の薄明に浮き上がります。茂吉は一本道を歌は取り上げて傑作を生みます。重厚にして簡潔。大胆にして濃厚です。今まで道を歌った歌人は様々にいるでしょうが,茂吉の道の歌はなぜこれ程に訴えかける力強さを備えているのでしょうか。
私が思い出す道は東山魁夷の「道」です。ちょっと見て下さい。
東山魁夷「道」1950年 魁夷42歳の作
何か一本道には人の心を誘う魅力があります。また人生を道に例えることもあるでしょうし,また未知なるものに向かう自分の道程を表していることも確かでしょう。茂吉の一本道の歌には,前向きに生きようとする自分の精神の孤高さも感じられて,むき出しの思いが強く読む人の心を打ちます。「写生」を基本とした山形生まれの茂吉の東北人の百姓魂さえ感じます。万葉集の中に「君が行く道の長手(ながて)を繰り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天の火もがも」という熱情を歌った歌があります。「あなたがこれから行ってしまう長い道を私の元に繰り寄せて一挙に焼いてしまいたい。そんな天の火があったら」という防人なのか,流刑なのか,とにかくも遠くへ行ってしまう泣き叫ぶような悲しみを激情にまかせて歌ったものです。茂吉の一本道の歌にはこの歌のようなエネルギーに満ちています。茂吉は「写生」から始まり,その自然を突き抜けて極まった感情を自然の静かな情景にそのままに溶け込ませたのでした。昔の言葉で言うと,即自から突き放された自己は他己に投げ出され,そこから新しい自己に還ってきます。その還ってくる自己の運動が自然の情景にエネルギーを与え,遠近感を呈させ,画面に不思議な生き生きとした魂を生まれさせます。写真はまさにこの力によって視る者を魅了します。茂吉は「写生」という手法をもちろん絵画から持って来ますがその写生が短歌に結晶化した作品群が「一本道」シリーズにはあるようです。この茂吉のあかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけりを元にした私の写真を見て,終わりとします。
茂吉の歌を主題にした一本道
激昂する茂吉
激昂する茂吉
ブナの展葉前線上昇中 ここは標高800㍍地点で5月8日の撮影です
今年もブナが柔らかい緑の葉をつけました
以前に書きましたが,このブナの展葉(葉が開くこと)は一日平均40㍍ずつ標高を上げていきます。(その記事は こちら )
上の写真は標高800㍍付近ですから須川温泉付近(標高1114㍍)のブナが葉をつけるのは5月8日から数えて7~8日後の今度の日曜日15日辺りとなるでしょう。この日は5月の第3日曜日に当たり,栗駒山の山開きの日になります。つまり山開きの登山にブナの展葉前線も付いていくことになりますね。どうですか,ブナと一緒に栗駒山に登りませんか。ちょっとお洒落なコピーになりますね。
さて今日は「激昂する茂吉」です。
齋藤茂吉に雁を題材にした「よひよひの露ひえまさるこの原に病雁(やむかり)おちてしばしだにゐよ」という歌があります。
この歌が芭蕉の句の模倣ではないか,剽窃(ひょうせつ)ではないか,写生こそ大事と唱える茂吉とあろう者が本歌取りを超えておよそ模倣を行うとは如何なものか,と指摘したのは太田水穂でした。この茂吉の歌はアララギ昭和4年十一月号に載ったものを芭蕉研究会にいた太田水穂が「あれっ」と思い,茂吉に仕掛けたのでした。
太田水穂をして芭蕉の模倣,剽窃という判断をさせたのは芭蕉の「病雁の夜さむに落て旅ねかな」という句を思い出したからでした。それを太田の主宰誌「潮音」に載せたのでした。
さて茂吉は怒りました。人の作品を模倣,剽窃呼ばわりをするとは何事だ。早速茂吉はいきり立ち,アララギ昭和5年三月号で二編二十一ページという大上段を振りかざして,太田に対しての反撃を開始したのです。
ブナの展葉前線上昇中
まずは仕掛けた水穂の弁を聞いてみよう。ここでもう一度茂吉と芭蕉の作品を並べてみよう。
よひよひの露ひえまさるこの原に病雁(やむかり)おちてしばしだにゐよ 茂吉
病雁の夜さむに落て旅ねかな 芭蕉
太田水穂「この曠野と見える原つ場の冷露の中に,野雁ならまだしも病気している雁を舞い落ちさせようというのであるから病妄想も甚だしい」(中略)「この原としたのは何故であろうか。この原と言うのであれば曠野とも,ただの草原とも,林木の原とも動くので
雁はその特性を発揮しない。鴉でも四十雀でもよいことになるのである。ことに「この」とは何事であるか。平生抽象を罵詈(ばり)する齋藤にも似合わず,この大切な三句目に来て,「この原に」などと散漫な言葉を並べたところ到底本気の沙汰とは思われない」
結構な辛辣さと皮肉である。
さて茂吉は太田水穂を馬鹿呼ばわりして反撃を開始した。
茂吉「僕は少しく馬鹿な水穂に言って聴かせよう。「この原」とは「この目前の葦の生えている原」という意味である。この「原」をば曠野とか,ただの草原とか,林木の原などと連想するのは水穂が愚鈍だからである。その程度の愚鈍鑑賞家である水穂などは到底僕の一首も分かりっこないが,水穂よく聴け。雁は多く葦などの生えている所にいる。画題に蘆雁というのは即ちそれである。また,古来雁の名所である「原」がいかなるところであるかということを水穂は少しく勉強して知るべきである。ここのところを水穂ならば「蘆原」などというかも知れぬが僕はそういうことを言わない。僕は単に「この原」と言う。歌人としての力量に霄壌(しょうじょう)の差別の附くのは既にこの一句で証明されるのである。(中略)次に「この原の」なかの「この」であるが,この力量は到底水穂輩の思いだも及ぶ技法ではない。水穂は「この」を散漫で抽象的だなどと言うが,これ程緊密で具体的な技法はないのである。僕の歌の中の「この」は,和歌の極致であり,写生の妙諦でもあり,人麻呂にも比すべき力量なのである。しかるに僧良寛の力量は既にここの点を悟入していたので僕は大正三年に,その良寛の力量を讃えておいた。
注)良寛の歌は次のものだろう。「太田水穂を駁撃す」昭和5
この宮のみ阪に見れば藤なみの花の盛りになりにけるかも 良寛「良寛和歌私鈔」の最初の一首
茂吉は「この」の用法を遡って次々と挙げていく。
ブナの展葉前線上昇中
さて凄い応酬である。
これに対してまた太田水穂が「芭蕉の「病雁」の句に就て-斎藤茂吉氏の所論に対する解嘲-」を書いたのは,昭和5年二月のことである。この最後の方で太田はこれで齋藤茂吉と「病雁」について対戦するのは五回である,と記している。まことにすさまじい対戦である。
さくらの部屋2022-一本の桜とともに-
さくらの部屋2022-一本の桜とともに-
一本の桜とともに-ベストセレクション-
今年の一本桜も見事な花を咲かせました
そこで今日はこの一本の桜を見続けて,今までの写真から選り優りの名シーンをお送りします
お楽しみ下さい。振り返って見ると、撮影の技術よりもやはり恵まれた夜に依るものだと思います。その恵まれた夜に出会うためにはただ忍耐の一言に尽きます。その時,この場所に居合わせるしかありません。
昇る天の川
桜吹雪舞う
ほのかに浮かび上がる
夕暮れに沈む
霧の祝福を受ける
雪に叩かれる
さくらの部屋2022-天の川とともに-
さくらの部屋2022-天の川とともに-
天の川とともに
というわけで合成してみた
今季の満開の時期がちょうど月明かりの時期と重なっていたので,一緒にきれいな天の川は撮りづらかったのです
というわけで組み合わせてみたのでした
微妙に無理がありましたがイメージ的にはこんな感じです
さくらの部屋2022-巡る星々-
桜の部屋2022-巡る星々-
巡る星々
薄く雲が流れる夜でした
さくらの部屋2022-咲き始めの恥じらい-
ひたすら桜ですみません