遠すぎるものを恋慕う

 

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遠すぎるものを恋い焦がれる
と、あるときそれが近くにあるような心持ちに感じられる
それは、およそ見えないものと知っている
が、霧がかすかに動くことで何やら朧気に見えているように感じられる
見えていないものの向こうを気にしている

戦後80年を迎え、町の戦没者名簿からデータベースに起こす作業をしながら
最近まで戦没者の墓地を廻って記録を照合させたりしている日が続いた
戊辰戦争まで遡っての戦死者700人のデータを入れる
その内ひとりひとりの戦死者の方々の苗字と名前を打ち込むと
その瞬間に自分の目の前に何かがぼんやりとしたものが立ち上るような気がしていた
あまりに連日の作業で、集中しすぎていたからだろうか
しかし、名前を入れるとまるでその名前の方が姿を現わしてくるような感覚になる
非常にとまどいを感じた
それはあくまでぼんやりとした人の似姿のようなもので、もちろん目鼻などは見えない
不思議な感覚であった

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折口信夫の文を読んでいると、どこか遠くのものを恋い慕うこころもちが見えてくる。いや、見えてくる気がする。『死者の書』などに横たわる通奏低音のような登場人物の足下には、「恋慕う」心持ちが溢れているではないか。その感情は、とても遠いものに対する思慕、叶うことが難しい思慕と呼ぶことにしよう。彼はそれをよく「俤(おもがげ)」という。そう思うと折口信夫の文章が通りよく読む者の心の中に落ち着いてくるように思う。折口ワールドを成しているのは万葉の世界だが、彼自身東歌を好んだのはまさに遠くの人を恋い慕う気持ちが並べられて居るではないか。

 弟子として終生折口の側に居て、先日亡くなった岡野弘彦が『折口信夫伝』を書いている。その中で釈迢空としての短歌に触れて岡野は、はかりかねる言葉、「ひそけさよ」「さびしさ」「むなし」「さみしも」を読み込んでいく中で度々引き出してくる歌があった。

ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ
鶏の子の ひろき屋根に出でいるが、夕焼けどきを過ぎて さびしも


詞書きそのものが一つの歌になっているのでまるで二首あるように感じるが、岡野が次のように読み解いていく。旅に出かけて宿もみつからず、やっと泊まることになった民家では客の折口にごちそうしようと、飼っていた親鳥の一羽の首をひねって殺していた。それを折口は見ていた。「雛の親鳥は くびられにけむ」である。本歌ではその殺された親鳥のひなが広い屋根に出ていておりしも雛の彼方に見える夕焼けがたそがれ時を迎えて暗くなりかけている。そんな景色である。そして折口は最後に「さみしも」を置く。

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一日を終わらせる夕暮れが来たから「さみしも」ではない。泊まろうとする家で一羽の親鳥が殺され客である自分の夕餉を飾ることになった、そのことが「さみしも」なのである。そして重ねて殺された親鳥の雛はそんなことも知らずに今夕焼けの中にいる、それが「さみしも」なのである。つまり折口にとって「さみしさ」は夕焼けをただ形容する言葉ではなく、体よく歌をまとめるための語句でもさらさらなく、それこそ心の根幹を揺るがすもう戻ることもできない罪を犯してしまった心もちに対して「かなしいのである」何も折口自身が鶏を殺したわけでもないのに決定的に夕闇の中にいる彼は「かなしい」のである。

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こう考えると釈迢空の使う「ひそけさよ」「さびしさ」「むなし」「さみしも」には現地にも行くことなく枕詞や想像だけで歌をつくりあげる修辞的な技巧とは対極の場所にあると言っていい。彼が旅をよくしたというのはたった一人、山道で静かすぎる谷間に迷い込み、やっと一軒の家がみつかった安堵やそこで生きる農民の姿、祈りの姿がダイレクトに歌をつくる心に響いてくるからである。終戦間近の昭和20年7月26日、折口は軍人に対して「己を正しうせんがために、人を陥れるやうなことを言ってはなりません」と厳しくたしなめた。民間人が発するには信じられない程の、この憤りのことばを躊躇なくぶつけたのは息子春洋の戦死もそうだが、彼が沖縄を旅したその豊かな沖縄で10万人もの犠牲を出したこと、沖縄の豊かな文化や人を平気で踏みにじろうとする暴力に対する憤りでもあっただろう。
折口は終生、遙か遠くの日本人の原像を生きていた。その生き方には古代に帰るには遅すぎたこともの、遠くなったことものたちに対して、自分の非力を抱え以てただ恋い慕うことしかできない、「ひそけさよ」「さびしさ」「むなし」「さみしも」があったと思う。

葛の花踏みしだかれて色鮮らしこの山道を行きし人あり

山道にとり付いた頃にはもう誰もいなくなっていた。まぎれもなく葛の花を踏んでいったのは彼の恋い慕う人だった。しかし遅かった。

人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけさ

水の変様9-東北歌枕『能因歌枕』-

 

y「能因歌枕」について

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さそりに座に挑む潮吹き岩

長野に山登りに行った際に泊まった民宿のおばさんが、私が東北宮城の出身だと知ってこう言った。
「こちらから(長野)平泉の中尊寺にバスツアーで行きましたが、平泉は本当に遠かった。何を見たのかを忘れるほど遠かった。」
正直な感想だと思った。みちのくは「道の奥」なのであり、日本の奥の奥だから「奥州」とも呼ばれたのだろう。

ところがこの「みちのく」を果敢に踏破しようとしたのが「能因法師」であった。それも二回も。この能因法師の足跡を訪ねて、後に西行が二回、そして芭蕉が歩き、菅江真澄が歩いた。東北を1020年代と1040年代に二回も訪れた能因法師だが。むしろ未踏の地を歩く探検家としての視点で彼らを見たらまた興味深く思えてくる。

誰も行ったことのない東北に素晴らしい「歌枕(名所)」の地がある。「名取川」「宮城野」「末の松山」「塩竃」「武隈の松(たけくまのまつ)」「壺の碑(つぼのいしぶみ)」「沖の石(おきのいし)」「最上川」「福島 信夫の里」などなど。そんな当時の古今集に詠まれ、憧れていた東北に未踏の開拓者として乗り込む能因法師はまさに「数寄者(すきもの)」の典型だし、能因法師を倣った西行の東北行もまたかなりの「数寄者」だったろう。

 さて「動画 水の変様」シリーズに先日紀貫之を出したのだから、次は「能因法師」と考えていた。
能因法師が訪れた歌枕の地は「能因歌枕」として残されている。拾ってみよう。
白河の関(白河の関)
名とり川(宮城県南の名取川)
たけくまの松(岩沼市の竹駒)
たまつくりの関(玉造)
衣の関(岩手平泉)
いはひ川(磐井川)
あひみの山(不明 埋没歌枕)
みゝやま(不明 埋没歌枕)
まがきの嶋(塩竃付近の嶋)
かぜのさと(不明)
いはての郡(岩手の都盛岡のことか)
あへかのをか(不明 埋没歌枕)
をしのゐて(不明 埋没歌枕)
しほがまの浦(塩竃)
わすれずの里(不明 埋没歌枕)
はづかしの里(不明 埋没歌枕)
宮こじま(東松島市)
なとりの峯(名取市)
たつくらの濱(不明 松島辺りか)
かみやどの嶋(不明)
うきしま(多賀城市)
衣がは(衣川)
いはせがは(福島県須賀川市、阿武隈川の支流である釈迦堂川である説)
まつしま(松島)
みくらし山(奈良竜田川の三室山のことか)
おとりの池(不明)
いはむがは(不明 「いはひ川(磐井)」と引っかけたのか)
とかげのさき(不明 樹木の栂の意かという説)
あそびのをか(不明)
あぶくま川(阿武隈川)
みかたの井(摂津国(現在の大阪府北部・島本町付近)という説)
たのめの関(石巻市周辺(旧雄勝町・桃生町付近)という説)
水のこじま(大崎市岩出山の美豆の小島のことか、セットで詠われる「小黒崎」も歌枕)
からすきが崎(伊勢国(現在の三重県)の海岸にある名所「唐鋤が崎(からすきがさき)」)
たちばなの山(岩手北上市花巻市付近か)
あひえのをか(迫町新田付近にある「浅江の丘(あさえのおか)」やその周辺の丘陵地帯を指すという説や滋賀県饗庭の岡))
をこのぬま(男沼のことか)
たかのせき(安宅の関と模した言い方か)
さねとり山(登米市迫町北方の「姉取沼」であるという説がある)
いにしへのかは(大阪府を流れる「三箇の河(さんがのかわ)」)
をやまだの関(武蔵国の「小山田の関」の説)
能因のことばはどこか鄙びていて懐かしい響きがします。

 

 

 

「水の変様6水辺の文学」に「紀貫之」を選んだわけ

 

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雪降る林

「水の変様 水辺の文学」シリーズを始めて、毎朝池や沼、川の水を見詰めて撮影するようになった。従って読む本も水に関係する本が多くなった。池や沼、川のほとりを舞台にした文章や詩、和歌などを読むようになった。その中でも「紀貫之」を発見したのは嬉しかった。

普通私たちは紀貫之の和歌を教養の一部ぐらいな気持ちで読むが、それだけだった。きれい、なるほど、ぐらいの浅い読みに留まっていた。今回、水をテーマにして紀貫之の和歌を読み直したとき、「はっ」とさせられた。実に彼が詠んだ言葉のイメージの一つ一つがフォトジェニックに迫ってきたのだった。彼の詠わんとする明確な映像がぴたっとピントが決まって頭の中に入ってきたのだった。不思議だった。どうしてか、彼の他の作品を読む内に水に対する彼の親和性というか、水を観察する彼の視点が実に水の特性を浮き立たせていることに気付いた。

早速読んでみよう。彼の辞世の歌である。
「手にむすぶ水にやどれる月影の あるかなきかの世にこそありけれ」
訳《両手で掬い上げた水に月影が映った。今となってはあったと言えるのかそれとも幻とも言えるのかこの世のことは夢のようだ》
鑑賞 まず水を手にむすぶ(掬いとる)という行為が出てくる。その掬い取った手のひらの水に月がゆらゆらと映っている。映り込みの光景である。
この両手で水を掬い上げるという動作が彼は好きだったようだ。古今集春の部二番歌に彼の歌がある。
「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」
詞書きは「春たちける日よめる」なので、立春の日にまだ冷たい水を掬ってみたのだろう。
訳《水を掬おうとして袖を浸してしまったあの水も今は凍ってしまっているが立春の風が氷を解かすであろう》
手で掬う水の動作は次にもある。

404「むすぶ手のしづくに濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな」
詞書きは「 志賀の山越えにて、石井のもとにてものいひける人の別れけるをりによめる」というように離別の歌になっている。
訳《手から落ちたしずくでも濁ってしまう山の井の水は飲めないように、あなたとゆっくりと話もできず、心残りがあるまま別れてしまうとは》

かように紀貫之は「手にむすぶ水」が好きだったのである。そして掬い取った水に映る月や櫻や空や雲を楽しんだのであった。更に水を掬い取るだけではなかった。掬い取った水底にも視線を落としている。まさに映り込みの景色である。
881「ふたつなきものとおもいしを水底に山の端ならでいづる月影
詞書きは「池に月の見えるをよめり」
訳《二つとないものと思っていた月が、今は水底に、山の端でもないのに現われた》

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更に「映り込みの光景」が続き、次には空である。
89「桜花 散りぬる風のなごりには 水なき空に浪ぞたちける」
詞書きは「亭子院歌合せ(913年)のうた」
訳《風で散ってしまった桜だが、今は水のない空で花びらが波のようにうねって飛んで行く》

どうだろう。紀貫之の歌のスタイリッシュで、フォトジェニックな歌づくりが分っていただけただろうか。
とにかく彼は辞世の歌までにも使う「手にむすぶ水」が好きで、またその水に映り込む世界総てを我が物のように愛しく思っていたのである。

さて紀貫之がとても好きだった「水を掬うということ」が当時はいとも簡単にできたのだろうか、と不思議に思う。
夜にわざわざ池や沼、川などの水辺に出かけていって、暗闇の中でこのような風流な「水掬い」をいつもしていたのだろうか。冒険心のある紀貫之だなあと思っていたら、実は出かけていないことに気付いたのである。つまり彼が住んでいた家の南面にある池での出来事であると言える。つまり当時の「寝殿造りの家」にしつらえられた池へ気軽に草履を引っかけて水辺に立ったのである。これは和歌の「詞書き」を読むと分かる。
「池に月の見えるをよめり」
他にも
「月おもしろしとて凡河内の躬恒がまうできたりけりによめる」
つまり遠出しているのではなく庭の池でのことであった。納得である。

 

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「水の変様-水辺の文学-」映像の時間、言の葉の時間

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夜明け前 ハクチョウの眠り

「水の変様」についての視点は直近の記事で述べたので、ここでは「水辺の文学」について述べたい。
実は最初の「水の変様」一作目の-初雪-はワンシーンワンカットのみの大胆さであった。しかし、どうしても視る人は映像だけで5分も視聴するのに耐えられないのではと思った。現実の疾走している世界のリズムとかけ離れすぎていると感じた。そこで「水の言の葉」を映像に重ねることにして、カット数も増やすこととした。
いろいろ記憶を辿って読み直してみると、水や水辺を表現している作家達が意外に多いことに驚く。

これまで中勘助「島守」「沼のほとり」と2回、そして岡本かの子「生々流転」、田山花袋「ふる郷」と続けてきた。中勘助は軍隊退役後、野尻湖の孤島にわざわざ島守としてたった一人で住んだり、千葉の手賀沼に住んだ。いずれも水辺を好んだからと言っていい。次に、岡本かの子は「金魚撩乱」や「河明かり」「生々流転」などを読み返すと誰しも認める水辺の作家であったと肯ける。例えば「河明かり」の冒頭を引用してみる。

私が、いま書き続けている物語の中の主要人物の娘の性格に、何か物足りないものがあるので、これはいっそのこと環境を移して、雰囲気でも変えたらと思いつくと、大川の満みち干ひの潮がひたひたと窓近く感じられる河沿いの家を、私の心は頻しきりに望んで来るのであった。

このように水の近くから始まる。彼女の作品から「生々流転」を選んだのは作中、体育の女先生が湖に春を告げる流氷に乗って遠ざかり、やおら外套を脱ぐと天女のような裸体が霧の中に現れる場面がなんとも美しいからであった。田山花袋は若いときに書いた「ふる郷」からにした。沼向こうに引っ越した袖ちゃんに会いたいという逸話はなんとも懐かしく自分の子ども時代と重なったのである。実はよく晴れて風のない日に水辺に居ると驚く程水面を渡る対岸の音がすぐ近くで聞こえるものである。水の上を音は走るように速く伝わる経験がこの袖ちゃんのエピソードとつながった。
このような水辺の出来事を水の言の葉の断片のみを取り上げて映像に重ねた。文字が多いと映像の中の運動と一致せず、バランスが損なわれると思ったからだ。映像の運動時間と文字の運動時間が合うように工夫しているがそれが思いのほか難しい。この次は吉田健一を取り上げる予定でいる。今後も映像と水の言の葉が同じリズムで呼応し合う枠は続くだろう。むしろ文学の言の葉よりは水の映像を引き出す方がずっと難しい。しかしいつか新しい映像表現が出てきそうで楽しみでもある。

「水の変様-水辺の文学-田山花袋の袖ちゃん」作成にあたって

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春霧の朝

私が「水」に注目し始めたのは、水の特徴がこの世の多くの次元というものの縛りを受けない、自由な空間の場であるというところにある。そして水面の変化はどうしても動画という映像でないと、その運動性は表現できないと思った。スチル写真にはない要素、つまり「時間のイメージ」という最も難しい要素も抱え込むこととなった。
私たちが普通考えている3次元空間ですが水面ではまるで反対になり、縦軸、横軸がなく、高いところにある太陽、月、雲、青空などはすべて下の水面に留まり、目に見えない大気の動きやかすかな風さえ波立つことで可視化されている。多層的な次元がひとところに集まり、実に魅力的な「場」として水面は存在している。映り込みという反射、風による波紋の発生という物理的な現象が一枚のカンバスに見事に融合しているのである。空も雲も太陽も、そして星も暗闇でさえ、この世に降りそそぐもの総てが水面に映り込む場であるということ、おまけに水面そのものが環境の条件を繊細に受け止める場であること。水面をかすかに風が通ればさざ波が立つ、木の実が落ちればぽしゃんという音と波紋が立ち、視覚聴覚触角嗅覚という感覚を全身で感じることができる。
ここに水面を題材にした新しい表現を試行錯誤したいと思ったのです。

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遠くの雑木林

ただ今までアップした「水の変様4」まではどうしてもカット割りの難しさ、ワンシーンの時間、イメージの連続等を保証しなければただの羅列に留まってしまうという虞(おそれ)を感ぜずにはいられません。時間芸術と化した表現の舞台は極めて繊細な試行錯誤が必要だと感じています。また映像と音声、音楽との関係性も実に重要で、この動画(映画といってもいいですが)の深みは映像の歴史に立ち戻される面白みも含んでいます。
この映像をイメージとして再構築したのがドゥルーズの映像論ですが、その話はまた別記事でしたいと思います。

シリーズ5は吉田健一を扱います。乞うご期待。

 

 

強張(ごうば)る人間-中世物語群「申し子譚」-

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雪降りの朝

「強張る」と書くと、普通は「こわばる」と読むだろうが、今日のこの記事では「ごうばる」と訓(よ)ませたい。
「強張(ごうば)る」という言葉に「強請る(ゆする)(ねだる)」という意味合いが入っての「強張(ごうば)る」である。別の言葉で言い替えると「脅迫・強迫・迫る・要求・要望・要請・求める・頼む・請う・仰ぐ・催告・せがむ・せびる・ねだる」というような相手に強く要求を突きつける雰囲気です。

わざわざこんな前置きをしたのは「申し子譚」という話をしてみたいからです。
「申し子譚」というのは昔話や物語の中でよく


「子どものない夫婦が神仏に子どもを授けてくださいと熱心に願掛けをして満願の夜に夢枕に観音様が立って諦めた方がよいと申されることに対して、夫婦はどんな犠牲を払ってでもいいから子どもを授けてほしいと頼む場面が出てきます。そしてめでたく子どもが授けられる。


こんな話が「申し子譚」と言われている物語の一つの筋(ストーリー)です。
例えば、かぐや姫、桃太郎、力太郎など、子どものいない夫婦にかわいい子どもが授けられる話はいっぱいあります。神仏によってこの世に送られてきた子どもたちは殆ど皆特別な力を宿しています。つまり彼らは神様、仏様の子どもですから特別な子どもで、「神人」(じにん、じんにん / しんじん、かみびと)と呼ばれます。

さて「小夜姫」の話の中の「申し子譚」に入りましょう。

大和国壺坂在の松浦長者夫妻には莫大な富とありとあらゆる珍物名宝がありました。若返りの松、黄金が湧く壺、すべての物を持っているのが長者です。しかし残念なことに子どもだけがいなかったのです。そこで長者夫妻は、初瀬の観音さん、長谷寺に子どもが授かるように願掛けをします。すると満願の日に長者の枕元に観音様が現れます。観音様は夫婦に言います。


観音 どうもあなた方は一生懸命祈ったが、もともとは子どもは授からぬようなのじゃ。
夫婦 そんなことをおっしゃられるな。子どもが授かる願いが叶うよう私たちもよくよくお勤めを怠らず、精進潔斎をして毎日身を清め心の底から信心してきたのです。私たちには幸い冨が得られました。この冨をいくらでも捧げます。また珍品名宝何でも差し上げます。どうかどうか我々に子どもをお授けください。
観音 (いろいろ悩んだ末に)・・・では、よかろう。しかし条件がある。生まれた子どもが4歳になるまでに夫か、妻か、どちらかが死んでしまうことになるが、それでも子がほしいと言うか。
夫婦 もちろんです。私どもとてもう先がうんと長いわけではありません。人はいずれ死ぬもの。なんぞそのことを恐れますや。
観音 そこまで言うのであれば相分かった。


 このようにして月の良い晩に女の子が生まれ、小夜姫と名付けられます。

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続きです。

さて、こどものない夫婦が神仏に願掛けをしてやさしい観音様が現れて結局子どもが授かるという場合はいいのですが、違う展開が待っている場合があります。つまり願いがかくかくしかじかの事情でやはりかなわないのだと観音様から言われたらどうでしょう。


観音 どうもあなた方は一生懸命祈ったが、もともとは子どもは授からぬようなのじゃ。
夫婦 そんなことをおっしゃられるな。子どもが授かる願いが叶うよう私たちもよくよくお勤めを怠らず、精進潔斎をして毎日身を清め心の底から信心してきたのです。私たちには幸い冨が得られました。この冨をいくらでも捧げます。また珍品名宝何でも差し上げます。どうかどうか我々に子どもをお授けください。
観音 (いろいろ悩んだ末に)・・・しかし・・・やはりお前達の前世の因果で罪障が深くてな。お前の前世は山立猟師でな。多くの生き物の命を奪っていたのだ。また奥方の前世は瀬田の大蛇で、これまた多くの生き物の命を奪っていたのじゃ。残念なことだが諦めるしかないと思ってほしい。
夫婦 (宛てが外れ、やがて怒りの面持ちとなり)私どものすべての富や名宝も差し出しても構いません。また、もし願いと引換えにこの命差し出せというのであれば喜んで差し上げます。(夫婦は投地低頭して)どうかどうか、この最後の願いお聞き届けいただきますようお願い申し上げます。
観音 よくよくお前達の気持ちも分かるが、残念なことだができないことなのだ。


と、なったらどうしたらよいのであろうか。この長者の金銀財宝や宝物総てを捧げても構わないという言い方には、まるで取引の最後の切り札という切実さが感じられる。しかし観音様は長者夫婦の願いを退けるのである。
「これほどお願いしても駄目なのか」
夫婦はこう思うだろう。なにせ世の中のすべてを乗り切って来た知力も、財力もある長者である。夫婦は視線でお互いの気持ちを確かめるようにして怪しい光を帯びた表情にかわっていくのである。長者夫妻はここで「強張(ごうば)る」のである。願いが叶わないことの不合理さに怒り、すべて手に入れてきた人生なのに最後に願いが断られる理不尽さに憤る。これほど真剣にお願い申し上げているのになんの観音様ぞ。人をお救いくださるのが慈悲深き観音様ではなかったのか。
断られた口惜しさで歯ぎしりして観音様をにらみ返すのである。
そして言う。

まことお授けないならば、御前再び下向申しまじ。今御前にてこの腹十字にかき切り、臓腑つかんで繰り出して、あなた様に投げかけて、荒人神と呼ばれても、参り下向の人々を取って服するものならば、七日が内はいざ知らず三年が内に草木を生やし、鹿のふしどとなすべし

意訳 お願いしてお授けできないならば二度とあなた様の前には現れません。今ここで腹を十字にかっさばいて、内臓掴んで取り出して、あなた様に投げつけて荒人神となり、ここにお参りする人を取って喰ってもいいでしょう。七日ぐらいなら簡単で、私は三年続けて見せる。三年なれば観音様のお堂も朽ち果て鹿の寝床となりましょう。

なんとまあ人間というものは神仏をさえ恫喝し、強迫し、脅しつけられるものです。逆ギレの恐ろしささえ感じられます。
これが、「強張(ごうば)る人間」というものです。

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長者夫婦のあまりの強迫に観音様も根負けして、「それでは」と条件を出し、無事に子が授かるという筋になる。
しかしこのあらすじは案外観音様も人間くさいところがあるものだという点と、人間の欲の深さの醜ささえあぶり出しているように感じられます。

さてこうして神仏から授かった子どもは大切に育てられ、人生の岐路にまた立たされることになり、小夜姫のあらすじはまた展開していきます。2回に分けて「申し子譚」を書いてみました。

 

佐々木徳夫が言う、鈴木セツ「継子陽(ままこび)」ということば

   今日は、「小夜姫」の語りを佐々木徳夫さんが残した膨大なテープから拾い出して、永浦誠喜さんとそのお姉さんのきみゑさんの「小夜姫」の語りを聴きに仙台文学館に行った。そして二人の語りが伊藤正子さんの「小夜姫」とどこが同じでどこが違うのかを比較するという内容になるだろう。とても短時間ではできないてんこ盛りの内容となるだろう。大体にして「小夜姫」という話自体が数多くのバリエーションがあって複雑で整理仕切れない濃い物語なのです。

IMG_7512_1194_1515.jpg生前の伊藤正子さん 伊藤家提供

佐々木徳夫さんの残したテープを聴いていると巧みに相づちを打ったり、上手く物語を誘い出す言葉などが聞こえてくる。佐々木徳夫さんの声もいい声だと思いながら以前書いた佐々木徳夫さんの記事をもう一度ここで紹介したいと思う。


2010年に80歳で亡くなった民話採集家の佐々木徳夫(1929-2010)氏の「宮城仙北昔話夜話」を読んでいくと、とても印象に残ったことばとして遠野の鈴木セツさんの「継子陽(ままこび)」ということばを挙げていた。鈴木セツさんは遠野でも町の西側の綾織地区に住んでいたという。
谷間(あい)の村は、山々が迫り日の出も遅く、また夕陽が山の端に懸かるのも早かったろう。「継子陽」というのは夕方西の山に早々と陽が隠れ、村が暗がりに包まれそうな頃あいに一瞬、西側とは反対側にある東側の山の頂上辺りが残された陽の光を受けて赤く輝くことを言うらしい。直接に陽が当たるのではなく、影になっている山の端がかすかに残された日の入りと反対側の東の山を赤く浮き立たせるのである。その残り火のように赤く輝く「継子陽」は一瞬であり、たちまちの内に暗がりに呑まれ、山に囲まれた村は暗闇に沈んでいく。
はかない一瞬の、しかし村に住む者にとっては一日が終わる劇的な赤い色に随分と心を寄せたであろう。「継子陽」は直接に太陽の光が当たって照らされるのではなく、空全体に残された残り陽を一瞬集めたように輝く副次的な現象であろう。しかしその弱々しくも赤くただれたように一時(いっとき)の間だけ燃え上がる様を「継子陽」(ままこび)と呼ぶならわす村びとの何と美しい情緒であろうか。一瞬の輝きのはかなさも、直接光ではない副次的な光、だがその赤い色はしっかりと残された光の中に強い印象として残る。なんと昔の人は素晴らしい「ことば」を使っていたのだろうと私も心動かされた。

こうした日が沈んだ夕方の、陽のあるところとは反対側の山の端が一瞬だけ赤く輝く光学現象を、なぜ「継子陽(ままこび)」と村びとたちは形容することになったのか。はかなく、そのくせ一日の最後を激しく飾る赤い色、反対側の陽の当たらぬ山が燃え上がる現象、そしてこの後長く暗い夜がやってくる、これは「継子(ままこ)」という存在の哀しみを知り尽くした者の想いを一身に受けた命名ではないかと思わせる。鈴木セツさんの代表的な民話に「お月お星」という継子話がある。お月は先妻の子であり、お星は後妻として入った妻が産んだ子である。後添えとして入った妻は自分の子であるお星がかわいくてしようがない。先妻の子のお月は何かにと邪魔である。後添えの妻は憎くて邪魔な先妻の子お月を殺しに掛かる。
ちょっと、この哀しくも切ない継子話のひとつ「お月とお星」を読んでみよう。


むかし、あるところにお月(つき)とお星(ほし)という二人の娘がいたと。
 お月は亡くなった先妻(せんさい)の子で、お星は継母(ままはは)の子であったが、二人はとても仲が良かったと。
 継母は娘のお月を、 「お月は何ていやな子だべ」というて、憎んで憎んで、いつか殺してやろうと思っていたと。
 あるときのこと、父親が急用で上方(かみがた)へ出かけて行った。継母はこのときとばかり、お月を殺す恩案をしたと。
 妹のお星は母親のたくらみを知って、
 「姉さん姉さん、今夜はおらの布団さ一緒に寝るべ」
 いうて姉を誘い、姉の布団の中には西瓜を寝させておいたと。

 そうとは知らない継母は、そっと忍んでそれを出刃包丁で突き刺したと。
 「これでもう憎らしいお月も死んだべ」と、にんまりしていたら、翌朝になってお月が、
 「母さん、お早うござりす」
と朝のあいさつをしたのでくやしがったと。
 そこで今度は、継母は石の唐櫃(からびつ)の中にお月を入れて、奥山へ運んで行って穴の中へ埋めさせることにしたと。
 妹のお星はこれを知って、石屋にそっと頼んで、唐櫃の底に小さい穴を開けてもらったと。そして姉のお月に、
 「姉さん、この芥子(からし)の種を持って行ってけさい。唐櫃の中からこの芥子の種をこぼしていけば、春になったら芥子の美しい花コ咲くべから、それをたどりたどり必ず助けに行くから」
 いうて芥子の種を渡したと。
 お月は、お星からもらった芥子の種を石の穴からポトリポトリこぼしながら、山へ連れて行かれ、穴の中へ埋められてしまったと。
 やがて冬が去って春が来たと。
 野山に花がほころびはじめ、お月のまいて行った芥子の種が芽を出して、美しい花が咲いたと。
 お星は母に弁当を作ってもらい、山遊びに行かせてもらった。
 お星は芥子の花の咲いている道をたどって、山の奥へ奥へと分け入ったと。そして声いっぱいに、
 「お月姉さん、お月姉さ―ん」 と呼ぶと、向こうから細い声で、
 「ホーイ、ホーイ」
という返事が聞こえて来た。
 お星は急いで穴を掘って、石の唐櫃を開けると、お月を救い出したと。
 お月はもう、骨と皮ばかりに痩せ細って、髪の毛はトーキビの毛のように赤く縮れていたと。
 「んでも姉さん、よく生きていただ」
 「おら、お星がくれた芥子の種の残りを食べて、やっともちこたえただ」
 いいあって、二人は抱き合って嬉れし泣いたと。

 「姉さん、これからまた家さ戻っても殺されるべから、どこか遠くさ行くすべ」
 いうて、お月とお星は、手をたずさえてどこへともなく姿を消したと。
 それから間もなく、旅に出ていた父親が家へ帰って来たと。土産をいっぱい持って来たが、お月もお星も姿を見せない。女房に、
 「ふたりは、どこさ行っただ」
とたずねると、女房は、
 「たぶん、山さでも遊びに行ったのだべ」
と知らんぷりをしていたと。
(引用は「民話の部屋」https://minwanoheya.jp/area/miyagi_002/より)
「継子陽(ままこび)」
なんと昔の人の心のこもったことばであろうか。生きている間、野良で働く女達のはかなさや境遇の哀しみ、他人には言われぬ苦労を背負った女達の心のことばであろう。