中勘助「銀の匙」

中勘助「銀の匙」

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月輪舘より


春の終わりの川霧-月輪舘跡から北上川を見下ろす-罔象女


ここ半月ほど中勘助を読んでいる。
学生時代に「銀の匙」を読んで,その文章の巧みさに唸った。
それから四,五年ほどの間は,「あなたが好きな作品は何ですか」と尋ねられると,もっぱら「銀の匙」ですと答えていた。
ある日のこと,私は近くに住んでいた「安全地帯」という作品を書いた作家に得意げに「銀の匙」が好きですと言った。するとその作家はちょっと顔を曇らせて言った。「なんか子どもに感情移入し過ぎることも良くないよね」と言った。大の大人が,子どもを使って自分の思い込みを植え付けようとすることを好ましいことではないとその作家は言いたかったのだろう。確かに子どもに見せかけて大人の言いたいことを潜ませるような児童文学もあるのだろう。そうした書き手の浅ましい態度を牽制して言ったのだろう。
それでは「銀の匙」もそうなのか。「赤い鳥」に掲載されるような朧気な夢のような掌編と同じなのか。否。全く違うと言いたい。
銀の匙」にはどこか異様な説得力があると感じてきた。それは語り手の子どもが創り出す,つまり中勘助自身の強い意志が感じられる。その強い意志(社会的には反発だが)は,世間や世界にことごとく抗(あらが)うことで養われていることをよく書き表している。大人はすぐ忘れることで成り立っている。当の大人が振り返る自分の子ども時代は悉く誇張されていると思っていい。哀しさも憎しみも,楽しさの記憶もすべての記憶が強いコントラストを受け,記憶の色の階層は白か黒かに塗りつぶされているのだ。

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春の終わりの川霧-月輪舘跡から北上川を見下ろす-

今回「銀の匙」を再読したり,彼の他の作品をゆっくり味わうことができたことは幸せであった。と同時に文壇の騒ぎから遠くにいる中勘助の振り子の振幅度合いをわずかばかりではあったが確かめられたような気がした。中勘助のことについて何回かにわたり感想を書くつもりだがとりあえず箇条書きでその視点を出しておきたい。

・水に魅せられていた中勘助野尻湖手賀沼
・「島守」について-岩波茂雄安倍能成らとの交流-

・鳥の物語
・夜や夢の描写
・「犬」の特異性

この話は続きます