特集 中勘助2「銀の匙」

 

DSC_4116-7s.jpg
今朝の内沼

手触り,肌ざわり。触覚。
そんな視覚以外の感覚をまざまざと喚び起こす読み物がある。
そんな読み物に出会うと実に嬉しい。
まず,谷崎潤一郎の「美食倶楽部」
暗闇の部屋へ通されて女(らしい?)の指で口の中をれろれろと食前のマッサージを受ける。そして究極の美食「火腿白菜(かたいはくさい)」が出てくる。視覚が閉ざされた中で,他の感覚が総動員される描写の見事さ。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

「・・・大きな衝立の前に燭台を据えて畏まっていたが,畳二畳ばかりの明るい世界を限っているその衝立の後方には,天井から落ちかかりそうな,高い,濃い,ただ一と色の闇が垂れていて,覚束ない蝋燭の灯がその厚みを穿つことができずに,黒い壁に行き当たったように撥ね返されているのであった。諸君はこう云う「灯に照らされた闇」の色を見たことがあるか。それは夜道の闇などとは何処か違った物質であって,たとえば一と粒一と粒が虹色のかがやきを持った,細かい灰に似た微粒子が充満しているもののように見えた。」(P44)


宮城道雄随筆集

同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。


内田百閒「柳検校の小閑」

最後の番の女生徒が出て行くとき,後ろの戸を閉める音はした様であったが,なにかのはずみで,ひとりでに開いたらしい。五月の午後の風が草の葉のにほひを載せて,まともに自分の顔に吹いてきた。風の筋が真直ぐであるということを感じる。広々とした校庭の遠くの方に起こった風であろう。草の香りに混じって何か生臭いにほひが鼻についた。



これらの物語の設定は視覚が遮られている状況下での文章です。聴覚,味覚,臭覚,触覚などが豊かに駆使されて読む者に迫ってきます。私はスチール写真を撮る者ですが,同時に視覚だけではない,フルに様々な感覚が刺激される文学のジャンルが好きなのです。実は写真の楽しみ方が視覚だけではないという思いがあるからです。例えばそういった嗜好はドクインシーの「阿片常用者の告白」やハクスリー「知覚の扉」などから始まっています。感覚の新世界というのか,感覚の自由化というのか,感覚を研ぎ澄ます作品に出会えると嬉しいのです。
まぎれもなく中勘助の「銀の匙」は私の感覚の開放を手伝ってくれた大切な作品のひとつでした。

DSC_3289s.jpg
水面のゆらぎ

中勘助の「銀の匙」は幼い主人公(中自身でしょう)は,高くて手の届かない程の古い箪笥の上の小引出しをやっと半分開けて,背伸びして小引出しの中のものを手の感触だけで物色するシーンから始まります。


家にもとからひとつの茶箪笥がある。私は爪立つてやつと手のとどくじぶんからその戸棚をあけたり、抽匣をぬきだしたりして、それぞれの手ごたへや軋る音のちがふのを面白がつてゐた。そこに鼈甲の引手のついた小抽匣がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風鎮ふうちんだの印籠いんろうの根付だのといつしよにその銀の匙をみつけた(後略)


こういった見慣れないものを触ってみる衝動に従うことは動物の特権でもあると言えます。
掛け軸を掛ける時の鮮やかな色合いの糸房,ガラス細工の玉,ひやりとする金属の小物,毛氈のなめらかな肌ざわり,かぐわしい香りの匂い玉,樟脳の匂いの強いハンケチ・・・。それらの薄暗くなった部屋の畳の上に撒き散らかされた息も潜めるほどの宝物たちに心ときめかした子ども時代のあの日。
中勘助の「銀の匙」は最初から見事に感覚の飛翔を与える小道具を出して見せた。

DSC_3877-7s.jpg
今朝の伊豆沼

銀の匙」がただの子ども時代への甘い追憶や感傷に陥らずにいることに,登場人物の「伯母さん」の存在がある。掛け値無しにただひたすら助け庇護してくれる存在は,実はなくてはならぬものだと思わせる。その伯母さんは「国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで困つた者はもとより、困りもしない者までが困つた困つたといつて金を借りにくると自分たちの食べる物に事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさへ貧乏な家は瞬くうちに身代かぎり同然になつてしまつたが、さうなれば借りた奴らは足ぶみもしずに蔭で「あんまり人がよすぎるで」なぞと嘲笑つてゐた。二人はよくよく困れば心あたりの者へ返金の催促もしないではなかつたけれど、さきがすこし哀れなことでもいひだせばほろほろ貰ひ泣きして帰つてきて「気の毒な 気の毒な」といつてゐた。」という底抜けにやさしい人なのである。
実はわたしも大のおばあちゃん子だった。何かにせよ,神様仏さまに手を合わせ,そして孫や甥姪にも,世の中の損得とは全く別に存在全てを全肯定しながらただ抱き寄せられる安心感に浸ることができたのである。
章魚坊主章魚坊主と家族からも言われていたその子どもが毎日必死に伯母さんにひっついてこの世をやり過ごし,どうしても地面に降りなければいけない時に,「世の中の地べたがゆらゆらと揺れるような気がしてますます伯母の袂にかじり着くのであった。」
こういった,人が一日一日と生きていく不安と格闘を見事に活写している「銀の匙

今の子ども達にも是非読んでもらいたいものだ。