中勘助5-水辺の自分その境界の消失-

 

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カタクリまだ咲かず

人は何かあるたびに水辺にたたずむ。
水辺に立つということは自分では解しえない現実の脈絡もない筋書きを水という鏡に他人事のように写し出すためである。川や海が人の心を写し出す「鏡」となることを知っているからだ。一人つぶやきながら,水にもう一人の自分を語らせる。

今,ゆらめいた水面に写っている自分はもう本当の自分ではない。
もう他人なのだ。我が苦しみよ。我が後悔よ。そして行く宛てのない憎悪よ。去ることもない哀しみよ。そのすべてが水の中に溶け込み,沈み去るがよい。水の世界は哀しみ人の抱える脈絡もない筋書きを水底深くへ沈めていく。

このように思いながら水辺を渡り歩く中勘助を見て,5回目となります。
今日は大正元年作の「島守」です。「銀の匙」はまさに水辺,野尻湖で書かれました。そしてその水辺の生活の様子を描いたのが「島守」です。野尻湖の北西にある孤島,琵琶島に島守としてたった一人で渡った中勘助は日記仕立てのこの作品を明治四十四年九月二十三日から始めます。終わりは約一か月後の10月17日です。たった一人だけの孤島で過ごす生活はこう語られている。


朝目がさめるとながいあいだの習慣にしたがって睡後のけだるさが心臓から指の先まですっかりきえてしまうまでは静かに床のなかに仰臥している。漸く五体が自分のものになれば起きて南の浜へ顔を洗いにゆく。・・・。次には土間の蓄えのうちから一掴みの杉の枯葉とやや生のとを拾い五、六本の木屑をそえて焜炉に火をおこす。燃えたつ火のなかへ三つ四つ手づかみに投げこむ炭のおこるころには杉の葉は灰に、木屑はほどよくおきになってそのうえに土瓶がのせられる。掃除をして餅の黴をけずり、玉子や茶道具をそばにならべ、小皿に醤油しょうゆをうつすじぶんにはちょうど湯がわく。そこで火箸ひばしを火のうえにわたして餅をのせ、その焼けあんばいによって焜炉の扉のかげんをするのをひとりで興がりながら端から醤油をつけてたべる。それから玉子をのみ、豆板をたべ、茶をすすって朝の食事をおえ、ひと休みののち食器をかたづけるまで火をたきつけてから約一時間半を費す。・・・。小憩ののち読書、もしくは日記。時間と手数のために昼飯をはぶき、もし暖かならば南の浜へおりて体をふく。膝ぶしぐらいまで水にはいり、摩擦によって充血した皮膚を日光にあてまた微風に冷しながら四方の山を眺める気もちはまことに爽快である。もし濯すすぐべき衣類食器などあればついでに洗う。帰って心臓の鼓動のしずまるのをまって読書、要すれば午睡。三時半夕食の用意にかかる。(日が)暮れるまでにゆっくり散歩の時間を得たいためである。大体の順序は朝におなじ。但ただし夕食は雑煮なので餅の黴をおとしてからおなじ庖丁で鰹節をかき、茄子の皮をむいて銀杏いちょうにきり、つゆのかげんをして鍋をかけねばならぬ。しずかに休んでから手ばやく食器をかたづけ、火をけして鳥居へゆく。そうしてそこからお宮までのあいだの長い路を落葉をひろったり、歌をうたったり、木の根をまたいだり、石段をあがったりおりたりして火ともしごろまで歩いている。


中勘助は実に一人の生活を楽しんでいるようだ。ただ島守としての仕事と言えば暗くなってから鳥居のところに灯明を点けて歩くことである。あとは鳥の声を聴き,木々を見上げ,どんぐりを拾い,鼠や虫を観察する。まことにのんびりとした生活である。何かしらと不便な島の生活についての愚痴は何一つ書かれていない。彼はこんな生活に心底憧れていたのではないだろうか。実際この野尻湖の標高からしてお彼岸過ぎのこの季節は底冷えが増す時期だが,そうした暑さ,寒さへの不平は一言も彼の口からは出ない。むしろ寒くなっての冬の渡り鳥の来訪を待ちかねている様子にさえ自然好きな彼の楽しみが読み取れる。十月二日の文章を味わってみよう。


朝。鳥は山をこえる朝の光をみて さめよ さめよ さめよ と呼ぶ。呼ばれてさめるものはこの島に私ひとりである。そうしてさめて四周の清浄なことを思って心から満足をおぼえる。濶葉樹(かつようじゅ)の葉ごしに緑の光がさして切るような朝の気が音もなく流れてくる。崖をおりて浜へ出る。村の人たちはまだ起きたばかりであろう、湖にも岡にも影がみえない。
 食後。桟橋へでる。斑尾の道を豆ほどの荷馬がゆき、杉窪を菅笠がのぼってゆくのは蕎麦を刈るのであろう。そのわきには焦茶ちゃ色の粟(あわ)畑とみずみずしい黍(きび)畑がみえ、湖辺の稲田は煙るように光り、北の岡の雑木の緑に朱を織りまぜた漆までが手にとるようにみえる。妙高、黒姫も峰のほうはいつしか黄葉しはじめた。曳かれてゆく家畜のように列をなして黒姫から飯綱へかけ断続した朝の雲がゆく。水の底が遠くまで透けて日光につくられた金いろの網がぶわぶわとゆらぎ、根こぎにされた水草の芽が浮きもせず沈みもせずにゆらゆらと漂いあるく。


中勘助の筆は秋の空気感をそのままに冴え渡っている。ワンセンテンスが短く,むしろカット割りは多いが,一つ一つの映像がしっくりと頭に立ち上がってくるのは何よりも風景に同化しているからであろう。つまり今居る風景への絶対的な親和感が文章を肯定感で満たしているのである。このような肯定感はツルゲーネフの「逢いびき」「はつ恋」などの自然主義描写の興りに同時代的に中勘助もシンクロしているような気がする。
この頃,文壇連中は題材探しに急急とし,新聞ネタで騒がれたり,三面記事を騒がせる新聞と癒着していた作家達とは全く別向きに脱東京を果たした。中勘助は「銀の匙」で高校大学と恩師であった夏目漱石から朝日新聞への連載に推薦を受けたことは実に彼の文学的環境が揃っていたことでもあった。彼はこうして人まみれの東京から遁走して水辺へと走っていったのだった。

人は何かあるたびに水辺にたたずむ。
水辺に立つということは自分では解しえない現実の脈絡もない筋書きを水という鏡に他人事のように写し出すためである。川や海が人の心を写し出す「鏡」となることを知っているからだ。一人つぶやきながら,水にもう一人の自分を語らせる。