中勘助4-水辺に向かう心-
中勘助4-水辺に向かう心-
春霞の伊豆沼 昨日4月5日
私が好きな絵にダビット・カスパー・フリードリヒの「海辺に立つ修道士」がある
早速見てみましょう。
デビット・カスパー・フリードリヒ『海辺に立つ修道士』(部分)1809-10
人は水辺に立つと決して後ろを振り返ることはしなくなる。どうしてだろう。人は,海でもいい,川でもいいとにかく水辺と向かい合うことでそこには不思議と閉じた空間と時間が生まれるのである。こういう私も伊豆沼のほとりに生まれ,子どもの頃から水辺が好きで飽くことなく水と向かい合ってきた。水面や水平線を見ていると,自分の全てが水に溶けていってしまう。自分の抱えてしまっている始末に負えないもの達がいつの間にか無くなってしまうのだ。
こんな感覚を覚えている人も多いと思う。
中勘助を好ましく読んでいるが,この中勘助という作家も「水辺に向かう心」を持っていたのではと強く感じる。今日は水辺に居る中勘助を遠くから見て,その背中にそっと語り掛けたい。
「銀の匙」を書いたのはやはり水辺である野尻湖だった。まずは野尻湖の西北にある安養寺にお世話になり,そして孤島琵琶島へと移る。このことは「島守」に書いてある。
これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮さえぎるものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培つちかうべく湖のなかに蟠(わだか)まったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北にかわる境さかいめに崖を駈けおりて水を汲んでくるほどのあいだそれまでの騒さわがしさにひきかえて落葉松のしんを噛むきくいむしの音もきこえるばかり静しずかな無風の状態がつづく。
この島守の無事であることを湖の彼方かなたの人びとにつげるものはおりおり食物を運んでくれる「本陣」のほかには毎夜ともす燈明の光と風の誘ってゆく歌の声ばかりである。
中勘助はこの島での一人暮らしを「性来、特に現在甚だ人間嫌いになった私にとってもこの人が島へくることは一尾の鱒ますが游およいできたような喜びを与える」と喜んでいる。彼の文章は水辺を描いて実に冴える。彼の文章は瑞々しく,水のように自由に変化し,流れをつくる。
芙蓉の花の形をした野尻湖を地図で確かめてみよう。
芙蓉の花の形野尻湖と安養寺,琵琶島
なんとも本当に花びらの形に見えてくる。そして彼が実際島守になった琵琶島は彼が言うように「芙蓉の花に留まった虻(あぶ)」のように思えてくる。
差し込む光
私は今ひとりになって世のさかしらな人びとに愚かな己おのれの姿を見る苦しみからのがれ、またいかに人間はつまらぬ交渉をつづけんがために無益に煩わずらわされてるかを知った。世のあさましいことは見つくしまたしつくした。今はただ暫しばしなりとも清浄な安息を得たいと思う。旅人よ、私はおんみらがかしましいだみ声をもってこの寂寞せきばくを破ることをおそれるばかりである。
島にひとりいれば心ゆくばかり静かである。
こうした言い方は,外界を避けるというよりもドウシヨウモナク水辺に惹き付けられている自分の感情に正直であったからだろう。更に彼は翌年の明治45年夏もここで過ごし,「銀の匙」を書き終えるのである。彼26歳と27歳の夏だった。
早春のさんぽ道 昨日4月5日
だから中勘助は水辺を愛した,とはまだ言えないかもしれない。しかし,その後彼は今度は手賀沼に3年移り住み,「沼のほとり」を書くのである。やはり水辺である。「沼のほとり」の彼のことはまた別に話すとしても,どうして中勘助は野尻湖,そして琵琶島を選んだのだろう。同級生の岩波茂雄がまず藤村操の華厳の滝での自殺に衝撃を受けて,やはりこの野尻湖琵琶島に人生を考えるために哲学書を抱えて籠った。明治36年7月のことである。そして次には岩波茂雄の親友である安倍能成(よししげ)も2年後の明治38年8月に野尻湖琵琶島に籠る。そして3度目にこの中勘助である。どうも一人で籠るのに絶好の場所であるという話が三人の間で交されたかもしれない。しかし,なぜ岩波茂雄が野尻湖を選んだのだろうか。というよりも岩波自身もやはり水辺を乞い求めたと言えるのではないだろうか。それは岩波の故郷が長野県諏訪湖のほとりだからである。奇しくも岩波茂雄,安倍能成,中勘助という三人が同じ野尻湖琵琶島の島守になっていたとは実に興味深いことである。そして中勘助は更に水辺を求めて3年間手賀沼で過ごす。
どうだろう。中勘助はドウシヨウモナク水辺に魅せられていたといっても嘘ではないと感じるのです。
人は水辺に立つと決して後ろを振り返ることはしなくなる。水辺と向かい合うことでそこには不思議と閉じた空間と時間が生まれるのである。水面や水平線を見ていると,自分の全てが水に溶けていってしまう。自分の抱えてしまっている始末に負えないもの達がいつの間にか無くなってしまうのだ。