芥川龍之介のこと4-岡本かの子「鶴は病みき」-

芥川龍之介のこと4-岡本かの子「鶴は病みき」-

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サンピラー立つ 2月8日昨日の朝 蕪栗沼

芥川龍之介のことを書き始めての5回目となりました。
今日は岡本かの子の「鶴は病みき」からです。事実上の岡本かの子の小説家としてのデビュー作になり、文学界賞をもらった作品が彼女と芥川の思い出を書いたこの作品でした。作中では芥川は「麻川」となっており、かの子は「葉子」と書かれています。昭和11年6月に文学界掲載です。岡本かの子が芥川と出会ったのは避暑のため鎌倉駅裏にある「平野屋」での隣の部屋同士になった偶然のことからでした。大正12年7月、かの子34歳の時で夫一平、子ども太郎と共に過ごした夏のことでした。芥川は31歳でした。二人はそれっきりとなり、芥川が死んでしまう昭和2年の早春汽車の中で偶然に二人は再会することとなります。そしてその年の7月芥川は死んでしまいました。
かの子はどうして芥川が死んで8年も経ってから敢えて「鶴は病みき」を書いたのでしょうか。私はふとそう思いました。
「鶴は病みき」は隣同士となった芥川との交流を描いたものですが、読んでみると芥川に対する尊敬と彼女独特の女から観た男への鋭い切っ先をもった批評が入り交じったラブレターにも感じました。作中かの子が初めて文士達の会合で見かけた芥川を「麻川氏を惜しむこころ、麻川氏の佳麗な文章や優秀な風采、したたるような新進の気鋭をもって美の観賞」と褒めちぎっています。当時の作家としての芥川への傾倒が知れ、また世間での芥川の人気度も分かります。


麻川氏は私達より三四日後れ昨夜東京から越して来た。今朝早くから支那更紗しなさらさ(そんなものがあるかないか、だが麻川氏が前々年支那へ遊んだことからの聯想れんそうである。)のような藍色模様あいいろもようの広袖浴衣ひろそでゆかたを着た麻川氏が、部屋を出たり入ったりして居る。着物も帯も氏の痩躯長身にぴったり合っている。氏が東京から越して来ると共に隣の部屋の床の間に、くすんで青味がかった小さな壺つぼが、置かれたよう(私の錯覚かしら)な気がする。宿の主人が置いたのか、氏が持って来たのか、花は挿して無いし今後も挿さないような気がする。


などと要らない心配をする独特の思い入れが知られ、


某日。――麻川氏の太いバスの声が度々笑う。隣の棟に居て氏のノドボトケの慄ふるえるのを感じる。太いが、バスだが、尖鋭な神経線を束ねて筏いかだにしそれをぶん流す河のような声だ。


と細かな筆致はかの子独特の芥川に対する期待や思慕を感じさせる。
私はこの「鶴は病みき」を最初に読んだときには芥川の暴露本かと思ったが、細かく読むとかの子の芥川への追慕と思わせるやさしさも感じられる。こんな文章もある。
「麻川氏と私とは、体格、容貌、性質の或部分等は、全く反対だが、神経の密度や趣味、好尚等随分よく似た部分もある。氏も、それを感じて居るのか、いわゆるなかよしになり、しんみり語り合う機会が日増に多くなった。そして氏の良き一面はますます私に感じられて来るにも拘かかわらず、何とも云えない不可解な氏が、追々私に現前して来る。それは良き一面の氏とは似てもつかない、そして或場合には両面全く聯絡れんらくを持たないもののようにさえ感じられる。幼稚とも意地悪とも、病的、盲者的、時としてはまた許しがたい無礼の徒とも云い切れない一面に逢う。」

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サンピラー立つ 2月8日昨日の朝 蕪栗沼

岡本かの子「鶴は病みき」の発表にはちょっといろいろな経緯があった。
この「鶴は病みき」は小説家になることを切望していたかの子にとっても内心期するところがあったのだろう。彼女は原稿を「中央公論」に持ち込んだ。ここから瀬戸内寂聴「かの子繚乱」から引用します。


当時編集長だった佐藤観次郎は編集部の藤田圭雄に読ませ,まあのせてもよいというところまでになった。
ところが,かの子は(待っている)その間が待ちきれず谷崎潤一郎に直接事情を訴えて原稿を渡した。「こんなものは仕方がない」と谷崎は原稿を送り返してきたのだった。そのためかえって収拾がつかなくなった。



この出来事について後年谷崎は対談の中でこう話している。
「記憶にないんですが,それ(「鶴は病みき」)を「中央公論」か何かに推薦してくれというんですよ。自分がいいと思えば推薦するけれど初めから推薦すると約束するのはいやだ。だから拝見した上でよかったら推薦するよと言った。そしたら(原稿を)送ってきた。それと一緒に反物が一反来たんですよ。ぼくは腹が立ってね。送り返したんです。不愉快になってね。(対談「文芸」)谷崎潤一郎読本昭和31」

こうしたすったもんだで作品は出所を探して迷い始めたのでした。
実は谷崎は一高時代に岡本かの子の兄大貫晶川と同級で同じ文学仲間だったことから昔からかの子を知っていたのだが,厚化粧したかの子をあまり好きではなかったようだ。「野暮だ」と言い放っている。
さて「鶴は病みき」は,こうして中央公論から干されて,かの子は川端康成に相談した。川端は大正11年から岡本家に出入りしており,昭和8年10月の「文学界」創刊に向けて準備を進めていたのですが,その会合はかの子の家で行っていたのでした。川端は「鶴は病みき」に登場する芥川の一番の友菊池寛に原稿を見せて相談した。すると菊池寛は「芥川の一面がよく書けている。いいだろう」と了承したと言います。
こういうわけで「鶴は病みき」は「文学界」昭和11年6月号に載り,かの子は憧れの文学の殿堂の階(きざわし)に足をかけたのでした。しかし反響は賛美両論入り乱れたことは言うまでもありません。かの子自身は後にこの問題作について自作案内で「文人を愛惜する余り書いた」と説明しています。

私は「鶴は病みき」の後の文芸10月号に載った岡本かの子の「混沌未分」は爽やかでとても好きです。