芥川龍之介のこと2-「トロッコ」-

皆さんは芥川龍之介と言われると最初に何の作品を思い起こされるでしょうか。
蜘蛛の糸」「トロッコ」辺りではないでしょうか。
私は「トロッコ」です。しかし記憶を辿って作品を読むと違う点があったことを思い出しました。
途中,二人の土工が茶店に寄ります。主人公の八才の良平はトロッコの近くで待っていますが,一人の土工からお菓子をもらうシーンがあります。


巻煙草を耳に挾んだ男は、(その時はもう挾んでゐなかつたが)トロツコの側にゐる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有たう」と云つた。が、直ぐに冷淡にしては、相手にすまないと思ひ直した。彼はその冷淡さを取り繕ろふやうに、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあつたらしい、石油の匂がしみついてゐた。


この箇所はどうしてかよく憶えています。ところが私は「新聞紙に包んだ駄菓子」ではなく「油紙に包んだ駄菓子」と記憶していたのです。どうしてこのような記憶違いをしていたのか,もう分かりません。石油の匂いが染み込んだ新聞紙だったのを油紙とイメージしていたのでしょう。なんとも不思議な思い違いです。

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春を感じる朝 伊豆沼

さて皆さんも芥川龍之介で初めて読んだのは「蜘蛛の糸」か,「トロッコ」ではありませんか。そんな方が多いと思います。
なぜなら教科書に載っていたからです。ここに教科書(昭和43年当時)で採用されていた作品を書き出してみます。

小学校6年下 「くもの糸」東京書籍,光村図書出版
中学校1年  「くもの糸」学校図書,日本書院
中学校1年  「トロッコ」東京書籍,三省堂,日本書院
中学校1年  「魔術」  光村図書
中学校2年  「杜子春」教育出版
中学校3年  「山鴫」大阪書籍
中学校3年  「鼻」  三省堂
高等学校1  「鼻」  尚学図書,好学社
高等学校1  「ある日の大石内蔵助
高等学校1  「山鴫」大日本図書
高等学校1  「煙管」日本書院
高等学校1  「舞踏会」角川書店
高等学校2  「鼻」実教
高等学校2  「枯野抄」明治図書

このように芥川龍之介の作品は小学校・中学校・高校とすべての教科書に載っているわけです。これは芥川龍之介がデビュー当時から大変な人気があったということも表していると思います。そして子ども達は皆学校で,そして中学校になっても,高校でも芥川龍之介の作品を読むのです。
皆さんは,芥川龍之介の作品にどんな印象を持っていらっしゃるでしょうか。

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実は「トロッコ」は教科書に掲載する時に原作から削除されている部分があるのです。「トロッコ」の最後は次のような文で締めくくられています。


良平は二十六の年、妻子と一しよに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握つてゐる。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思ひ出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労ぢんらうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のやうに、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すぢ断続してゐる。……


このように作品は26歳の良平が8歳の自分の出来事を思い出しているという設定です。教科書ではそっくりこの文章が削除されています。どうしてなのか。読み手の時制を混乱させないためと思われます。つまり8歳の時の出来事がラストで急に26歳の良平が追憶していた8歳だったでは理解が難しいのではないかと教科書会社は考えたのでしょう。そして子どもが読むのに26歳の主人公では年齢も大きく隔たっているので想像しにくいという理由があって,8歳の良平に注目させるためにこの部分を削除したのではないかと思われます。26歳の良平の追憶だということは読み手には要らない情報だと教科書会社は判断したということです。8歳の良平の冒険だけにしておけば幼い読者の様々な経験を引きだして読解し易いと教科書会社は判断しました。良平と自分が重ね合って共感できる場を教室につくろうとする意図なのでしょう。

この「トロッコ」の作品の味わいは,忙しい日々の生活でふと振り返って見る自分の人生は8歳のあの時のように不安で,遙かで,遠すぎる場所に来てしまったという暗いトーンの雰囲気です。これからの行き先も分からない人生に今も同じように放り出されている。この重要な主題にも関わる部分を削除したことは芥川龍之介への冒涜ではないでしょうか。芥川龍之介の大人の毒を子どもには健康上よくないから炭酸飲料の炭酸を飛ばしてからの砂糖水を飲ませなさいと言っているようなものである。
では小学生に読ませる「くもの糸」はどうでしょう。人間のエゴの深さ,業の深さになるのであろうか。私には「くもの糸」はやはり怖くて,まるで「往生要集」の地獄絵図を読んでいるようです。芥川龍之介の作品を児童生徒用にアンソロジーとして編むならば皆さんはどんな作品を取り上げますか。もちろん文章を削除したり,改作したりするなんていう愚かなことはやめましょうね。