夜の写真闇の文学-串田孫一-

『自然との対話のための記録』-串田孫一のことば その3-

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14分の栗駒山でのの記録(オリオンから左下の金の出まで)

題名の「自然との対話のための記録」は串田孫一のエッセイの題名です。
昨日の記事で,私は彼は1978年の覚書(『Eの糸切れたり』所収)で,行の記録を次のように言っています。


天気図,雲の種類,雲量,雲向,風向,風力,降水量,気温などを記し,動植物その他の記録ももっと詳しく書いていた。一日も欠かしていない


と書きました。
この一日も欠かさず記録をつけたのが1951年暮れから1952年暮れまでの一年間のことです。この記録は「天気図,雲の種類,雲量,雲向,風向,風力,降水量,気温などを記し,動植物その他の記録ももっと詳しく書いていた。」というわけですが,いったいどんな記録だったのだろうと知りたくなります。その記録を抜粋して載せたのが「自然との対話のための記録」です。
今日はその中から串田孫一はどんな記録をしていたのか,読んで見ましょう。


1月8日
朝鮮半島に1024ミリバの高気圧があり,1020ミリバの等圧線は日本海の西部にやや波打って南北に引ける。8時に1010ミリバ,気温0℃。北西の風。層雲が広がり30分後に晴れてくる。12時,1007ミリバ,気温11.2℃。ところが13時30分になると気圧が急に下がり,積雲が出る。東南を見ると積雲の並ぶところから雷頭に出るような火炎状の巻雲が出る。雲はそれ以上に広がらずに東へと流れ去り,北西の遠い積乱雲も消える。或る地域に低気圧が発生したのではないかと判断した。


と気圧と雲の発生について記録しています。
「或る地域に低気圧が発生したのではないかと判断した。」と書いていますが,これを後で確かめています。記録はこう続いています。


〔附記〕夜の気象通報を聴いていると房総半島に1006ミリバの地形性低気圧が発生したという。


自分の判断したことが裏付けられるか,串田は気象通報で確かめて,自分の予想が正しかったことを確認しているのです。彼がただ自分の見たことをまず忠実に記録し,更に科学的に確かめようとする姿勢が分かります。
別の日の記録を読んでみましょう。今度はコンチュウです。

クヌギハオオケタマフシ
クヌギハオオケタマフシ(串田が観察していた虫えいの種類)画像は森林総合研究所クヌギハオオケタマフシの頁より転載


4月10日
9時,1010ミリバ,19.1℃快晴。午後になって風がやや強く吹く。寒冷前線が通る。気温高く,初夏の匂い。庭にスジグロチョウ飛来。夜カエルの声繁くなる。
ナラエダムレタマフシ(楢枝群生没食子)を割る。このタマバチは漆黒,足は飴色,羽はまだ乳色,不透明で極めて小さく,可憐な姿である。虫えいを割ってこれを取り出そうとすると脚を引っかけて中に戻ろうとする。1センチぐらい離しても,目には見えない細い蜘蛛の糸のようなものを引いている。これは拡大鏡で見ると虫えいの外部に光って見える。
幼虫は白色,一箇の虫えいに一頭から三頭入っているものもいる。ナラの他にカシワ,クヌギの小枝にも形成される。ハチはまだ立つことが出来ず,脚を縮めて仰向けになり,針の先でそっと触れると脚を盛んに動かす。


と,虫えいの中のタマバチの様子を観察し,4日後に「盛んにタマバチが出てくる。まだ飛ばない」と観察を続け,17日には「14日に生まれたタマバチは昨日飛べるようになったが,今日机の上で全部死んでしまう。」と書いています。
このような実際の観察はコンチュウ,鳥,植物に及びます。いずれも道具類を使い,顕微鏡を使い,解剖して極めて細かく,形,色,動き,経過を記録しています。まるでファーブルの日記を読んでいるようですね。

串田孫一は詩人でありながら,自然の観察はより客観性を追求し,科学的に追究していこうと心掛けます。
この方法がただの自分勝手な観察では自然の本質は理解できないのではないか,自分の観察したことや考えたことをもう一度疑ってみる。そして検証できることは検証してみるという自然観察の倫理性につながっていきます。
串田の歩きは,そうした基礎があって始めて成り立っていて,ただ自然の感興を書くのではなく,記録をそぎ落としていってなお残ったものを,つまり「自然と自分との関係」をさらに結晶化させて詩のことばにして書いていったと言えるのではないでしょうか。
「結晶化」とは,彼が詩の言葉に置き換える場合,納得したときによく発せられたことばです。

今日の本
串田孫一『Eの糸切れたり』から「自然との対話のための記録」
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山の文章と写真-串田孫一のことば その4-

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栗駒山最後の登り

私などは,歩いていてふと目に止まって立ち止まった時,頭の中で妄想的に様々な思いが湧き上がってくるのを押さえ切れずにしばしその思いを泳がせるという瞬間があります。そのまとまらない思いを落ち着かせるために,シャッターを押すという感じが当てはまるのかなあと思っています。その止まらない思いが連想的にフラッシュバックされ,イメージがやがて残像として静かに沈み込んでいったりします。また,ことばになったりすることもあります。何かと出会った時の魂のやりとりみたいなものが一瞬成立しているように感じます。単なる妄想なんですけど・・・。


1960年2月と文章の末尾に書かれている,串田孫一が44歳の頃の『
の文章について』という作品があります。
ここに写真のことも書かれているので,今日は串田孫一が自分のスタイルから見て
の写真をどう思っていたのかを書いてみます。
について文章を書くということは,その目的に応じて,紀行文にするか,案内記になるか,に行った記念に文章にしたためてみるか,エッセイにしてみるかで様式も広範囲にわたっているでしょう。そして,動物や植物,風景,鳥,,いろいろなものを織り交ぜることで表現も変わってるでしょう。
一番大切なことは自分の思っていることを自由に書いていったその果てにどんな様式になっても構わないということでしょう。ジャンルにこだわらないということを串田は思っているようです。そこに詩人としての串田が指向した世界があるようです。彼は言います。


確かにの文章は様々の種類様式はあるが,それにとらわれすぎないで,自分の印象を正しく見つめて,それに忠実に筆を進めて行くのがいいように思われる。


大体の私が凡人ですから「自分の印象を正しく見つめる」こと自体ができないわけです。また「忠実に筆を進める」こと自体ができないわけです。でもここに串田のスタイルが裏写しになってよく現れています。「自分の印象を正しく見つめる」ことに彼の視点があり,「忠実に筆を進める」ことに彼の視点があるということです。印象と書いた文章の誤差をなるべく少なくしていくこと。
次に,「正しい印象をもつ」ことには,彼が忠実に守るルール「ただ眺めるのではなく,観察せよ。」という観察眼の鍛え方によって自然の本質に近づいていこうとする態度があります。もうこの時点で凡人には自由に書けるものではありません。ただ彼の目指していた姿はなんだか分かるような気がします。
串田が続けるには


「構想を立ててみることは大切であるけれども,それにとらわれて窮屈な気持ちになってしまうことは危険である。」


とも言います。その上で彼は山を歩いているときには山の手帳にはメモ程度がよいと自分では思っていたようです。文章を書くための材料として備忘録の体裁が自分によく合っていたと言います。
ではこのような彼のスタイルからすると写真についてはどう考えていたのでしょう。


写真ではそれ自身を一つの作品として,その場で勝負をきめて来る感じが強いというので,むしろ文章の材料と考えることはあたらないかも知れない。




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栗駒山頂上から秣岳,遠くに鳥海山,沈む天の川を見る

串田は続けて「風景なり,その時の気分,雰囲気を,機械に任せ,フィルムに託してしまうことが,まだ恐ろしい気がする。」と書き連ね,最後には「写真の方は正直すぎ,細かすぎて,改めて見ている私を一つの状態にしめつけて行くように思われる。」とまとめます。

観察することに一生を費やした串田がカメラを使わなかったこだわりがよく見て取れます。彼は山から下りた後の湧き上がる思考を大切にすることで更に山を愛したい,楽しみたいと思う人だったのです。

ここで私は柳田国男からカメラを受け取ってその記録に苦労した佐々木喜善とやがてカメラに記録の方法をゆだねていった民俗学者宮本常一という二人の明確なカメラに対する態度の違いを串田のスタイルと重ね合わせると,道具としての写真というものの姿がとても面白く感じられます。