ハスの形象
記録では賢治が『
大乗起信論』と初めて出会ったのは15歳の夏期講習会での島地大等の講演『
大乗起信論』ということになる。以後年表から拾うと以下の様になる。
明治44年8月4日~11日 1911 賢治15歳 夏期講習会に参加。講師は島地大等(1875-1917)演題は『
大乗起信論』
明治45年 1912 賢治16歳 島地大等の著した「
歎異抄」に感動。「小生の全信仰と致し候」と賢治。
大正2年8月1日~7日 1913 賢治17歳 夏期講習会に参加。講師は盛岡報恩寺住職尾崎文英
大正3年9月 1914 賢治18歳 島地大等「漢和対照
妙法蓮華経」に出会う
大正4年4月 1915 賢治19歳 願教寺に島地大等を訪う。
大正4年8月 再び願教寺に島地大等を訪う。
大正5年4月4日付 1916 賢治20歳 偶然汽車で島地大等に会う(髙橋秀松への手紙)
ひと目見て賢治は島地大等の考え方に少なからぬ関心を抱いていたことが分かる。島地大等は天台本覚論を修め、天台本覚論の第一人者であった。15歳の多感な時期に島地大等が説く『
大乗起信論』はまちがいなく賢治の心に強い印象を与えたからこそ、後の島地大等への注目につながったと思う。
さて、肝心の『
大乗起信論』ですが、一般人の私の理解を超えた理論であり、説明などは到底無理である。「群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)」と同じで適当に読み流して下さい。せいぜいのたとえ話の域の話です。

マ
ガン朝の飛び立ち
私たちの心には既に「真如」というものが具わっている。真如とは宝の珠、宝珠と言ってもいい。人は具わっている真如(宝珠)を大切に磨きながら悟りの段階を踏んでいく。そしてやがて不変真如を獲得する(自分自身が仏となる)大悟に至る。(
如来蔵思想)この真如はすべての人が生来持ち合わせているもので、草木や動物にも具わっているのです。(絶体的平等性)
賢治の「
貝の火」を思い出して下さい。子ウサギのホモイがヒバリを助けてお礼に「赤い玉」を授けられますよね。あの玉が私たち一人一人が持っている宝珠、真如なのです。
ホモイは玉を取りあげて見ました。玉は赤や黄の焔ほのおをあげて、せわしくせわしく燃もえているように見えますが、実じつはやはり冷つめたく美うつくしく澄すんでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もう焔ほのおはなく、天の川が奇麗きれいにすきとおっています。目からはなすと、またちらりちらり美うつくしい火が燃もえだします。
人は本来賢治が言う宝珠「
貝の火」を持っているわけですが慢心、妬み、強欲など様々な欲でこの珠を曇らせてしまっていると考えます。ですからよく考え一心に信心し修行を重ねることで悟りへの階段を一段ずつ進むことで宝珠の美しい光を見ることができるようになるわけです。この悟りへの過程はよく蓮の花の生長の様子に例えられますね。
しかし不変真如を獲得していく過程はこんなに簡単で平面的な運動ではないのです。
ここで賢治の「インドラの網」を思い出しましょう。
「ごらん、そら、インドラの網あみを。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変かわったその天頂てんちょうから四方の青白い天末てんまつまでいちめんはられたインドラのスペクトル製せいの網、その繊維せんいは蜘蛛くものより細く、その組織そしきは菌糸きんしより緻密ちみつに、透明とうめい清澄せいちょうで黄金でまた青く幾億いくおく互たがいに交錯こうさくし光って顫ふるえて燃えました。
天から縦横無尽に張り巡らされた網、その糸の繊維は
蜘蛛の糸より細く、緻密に張られている。世界はこのような網状としてあるのです。このような世界がインドラの網です。その糸同士が結び付いている結束点を見て下さい。きれいなまん丸とした夜露の雫が見えますか。その露の雫をよく覗いてみましょう。一滴の雫の中に360度の世界が映っていますよ。
この一滴の雫が真如であり、宝珠なのです。一つの雫の中に周囲の世界のすべてが映り込む。「一即多 多即一」の世界です。すべてのものは一人の私の中に入り込み、私という一人は世界のあらゆるものの中に存在する。相互の映り込みの世界を表しています。この映り込みの世界にはすべてが平等ですから、私という者もなければ区別する他人という者もなくなります。つまりすべてが私であり、私がすべてなのです。大切なことは映り込みの世界では境界や差異がすべて無化され、隔てている者もなく、相互に交通可能な平等性を基礎としています。(天台の一念三千、
真言の六大所造)
真如とは実体としてあるとも言えますが、ないとも言えます。からつぽで(空)で我もなく、真如を自分勝手な妄想で作り上げればあるようにも見えますが、ないようにも(無)見えます。不生滅の真如が動いて生滅となるには真如に具わっている縁に随って動きます。(随縁真如)
この縁は根本無明が縁となって真如と無明が混じり合う運動を起こさせます。混じり合っているので言葉で表現すると真如でもなく無明でもなくもそのどちらでもないのです。まるで化学変化を起こして異相が見え始めるかのように混じり合いながら運動を続け、「真如-無明-アラヤシキ-真如」と運動は続きます。珠の曇りや偏見などを取り払いながら本当の珠の美しさが見え始めます。しかし注意が必要です。「迷いは似たものをつくり、似たものは迷いをつくります」から。