芥川龍之介のこと7-宮城を訪れる-

芥川龍之介のこと7-宮城を訪れる-

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芥川龍之介宮城県蔵王青根温泉に来ていたということを全集の年譜で調べてみた

あった
「1920(大正9)年8月1日(日)~28日(土)宮城県青根温泉に避暑のため出掛ける」
この時28歳の芥川龍之介は約1か月まるまる青根温泉に居たことになる
しかし青根温泉を拠点として松島などにも行ったろうと思われる
というのも大正6年辺りの7月。もともと松島へ行く計画があったが事情で取りやめになっているという記述もあるからだ
青根温泉滞在中の芥川は「お律と子等」の執筆中だったが,さっぱり進まず,脱稿できずにいた。結局東京に帰ってから取材し直したりして完成したのは10月23日となった。
その青根温泉で書き進めていたという「お律と子等」を読んでみた。
芥川にしては珍しく歯切れが悪い27000字原稿用紙135枚程度であった。どうも何を狙っていたのかが分かりにくい。むしろ生活の観察と写生に徹するというような敢えて実験的な姿勢を試みたと伺える気がした。

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それにしても芥川龍之介はこの年避暑にどうして青根温泉を選んだのかという疑問が残る
ここに青根温泉に行った文人達を年代順に挙げてみる(多分,後で追加することになるでしょう)

斎藤茂吉 明治19年 茂吉5歳
芥川龍之介1920(大正9)
与謝野寛・晶子夫妻1921(大正10)1924(大正13)
田山花袋 1922(大正11)以前「温泉周遊,東の巻」

例えば与謝野晶子が宮城の青根温泉は是非行きたいわと言って,芥川が「お先に」となったのかもしれないし,千葉亀雄が仙台なので紹介されていたのかもしれない。

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思えば勝手な想像だが,斎藤茂吉への傾倒があったのではないかと私は考えてみる。
「お律と子等」を読んだ折,私はどうしてか茂吉の母への思いと「赤光」の作品の数々に理想型を見いだそうとする芥川の思いが薄く見えるような気がした。芥川の茂吉への尊敬は並々ならぬものがあった。


二三の例外を除きさへすれば、あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もゐなかつたと云はなければならぬ。これは単に大歌人たるよりも、もう少し壮大なる何ものかである。もう少し広い人生を震蕩しんたうするに足る何ものかである。僕の茂吉を好んだのも畢竟ひつきやうこの故ではなかつたのであらうか?
あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや

菲才ひさいなる僕も時々は僕を生んだ母の力を、――近代の日本の「うらわかきかなしき力」を感じてゐる。僕の歌人たる斎藤茂吉に芸術上の導者を発見したのは少しも僕自身には偶然ではない。芥川龍之介「僻見」から「斎藤茂吉


一体「写生」とは何だろう。
茂吉の歌のあの重厚さや深みは本質に近づく「観察と写生」にあると言うが,茂吉の見る一本道は絵のように彩り豊かで軽々しいものには決して見えない。彼が詠う一本道はむしろ薄暗く寒々として堅く空気が立っている一本道である。一体茂吉の歌のあの重みはどこから来るのだろうか。そんなことは今までたくさんの歌人や評論家が上手に述べてはきたが,私は山形という土地と気候風土に根ざした東北人の血にあると思っている。東北人の背負っている自然はその土地に生きるという覚悟にある。
芥川は表現上茂吉のような言葉の密度を持つことを望んでいた。言葉一つ一つの持つ高い密度。それが自分のスタイルに足りていないものだという自覚があったのだと思う。そう思う芥川が茂吉の故郷蔵王青根温泉にやってきて「お律と子等」を執筆し,言葉そのものの質と格闘したことは実に興味深いことだと思う。

青根温泉は私が若い頃行った時には混浴でもあったが,何よりも人肌の温度の湯と少し高めの湯の浴槽が隣り合っていた。
宿を出て散策すると宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」の舞台のような広大なススキの野原が広がっていた。